2018年02月18日

甘い香りと蜜の味07



「――紗耶香さん、なにからなにまで本当にありがとうございました」

 飲み始めて二時間ほどが経ったころ。
 向かいにいる拓人は飲んでも飲んでも顔色が変わらないし、ななめ向かいに座る拓真は食べても食べてもいっこうに満腹にならないようだった。
 そんなふたりを尻目に、チューハイ一杯ですっかり酔っぱらい、顔を赤くした美樹は涙まじりに紗耶香に言う。

「うっ、うぅ……紗耶香さんが、遠くに行っちゃうなんて……さ、寂しいけど、私……がんばりますっ」
「あらあら、美樹ちゃんったら。泣き上戸だったの?」
「ご、ごけっこん、おめでどうございますぅぅ」

 うまくろれつがまわらないが、自分ではきちんと「ご結婚おめでとうございます」と言ったつもりだ。

「ありがとう。挙式までにちょこちょこお店に顔を出すと思うから……美樹ちゃん、おもてなししてくれる?」
「はいっ! いつでもお待ちしてますぅぅ!」

 よしよし、といった具合に頭を撫でられ、ますます泣けてくる。

(明日からはひとりでやらなきゃいけないんだ……)

 不安しかないが、やるしかない。一応は拓真もいるし、なにかあればすぐに拓人が助けてくれる。しかし、多忙なようすの拓人にあまり迷惑を掛けたくないというのが心情である。

(大丈夫、やれる! がんばる……!)

 美樹は酔いをさますため、お冷グラスをいっきにあおった。


 拓真は紗耶香を駅まで送ることになり、必然的に美樹は拓人とふたりきりで帰路についた。
 店を出て、数メートル進んだときだった。拓人に右手を取られた美樹は驚きのあまり足を止めた。

「昔はよくこうして歩いたよね。美樹ちゃん、転びやすいから。とくに、いまは少し酔ってるみたいだし。このまま手をつないで帰ろう」
「は、はい」

 拓人に引っ張られるようにして美樹はふたたび歩きだす。

(酔いはもうだいぶさめたし、いまは子どものころと違ってそんなに転ばないんだけど……)

 美樹は気づかれないていどにちらりと彼を見上げる。

(私って、拓人さんにとってはやっぱりまだ子どもなのかな……。ま、そうだよね。五つも年下だし)

 薄暗い歩道を並んで歩く。車道側にいるのは拓人だ。美樹は景色を見るふりをして、彼を盗み見る。

(コックコート姿もいいけど……私服もかっこいいなぁ……)

 ベージュのカットデニムのジャケットに、なかはボーダーのVネックシャツ、ダークグレーのGパンを見事に着こなしている。雑誌に載っていてもおかしくないスタイルのよさだ。

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posted by 熊野まゆ at 07:07| 甘い香りと蜜の味《連載中》

2018年02月17日

甘い香りと蜜の味06


 ニヤニヤと口もとをゆがめながら、拓真は小首を傾げてあごに手を当てる。

「じゃあ、『教えてください、拓真様』って言ってくれたら、いいよ」
「ええっ?」
「その一言でコツがつかめるんだから、安いもんだろ」
「う――」

 癪だが、いまよりも上手になれるのなら、そのくらい安いものだ。

「……教えてください、拓真様」
「ん、よろしい」

 満面の笑みになって、拓真がとなりに立つ。コツンと肩がぶつかったが、ふたりとも気にしない。

「美樹はさ、ここのツメが甘いんだよ。もっとこう――しっかり折り込めば、ずいぶん綺麗に仕上がる」
「ああ、なるほど!」

 美樹が左の手のひらに右のこぶしをポンッと当てたときだった。

「――こら、拓真。頑張ってる美樹ちゃんの邪魔しちゃだめだろ」

 拓真の体が急にうしろへ傾いた。拓人が弟の肩をつかんでうしろへ引いたのだ。

「おわっ! なに、邪魔してないよ。むしろ教えてあげてたんだって」

 つかまれた肩を、少しばかり痛そうに反対の手でさすりながら拓真は口を尖らせる。

「そう? それは失礼」

 拓人はいつものように笑っているが、何となく不機嫌のような気がした。

(なにか、怒らせるようなこと――……うぅ、心当たりがありすぎてどれだかわからない)

 仕事の手際は決してよくない。こんな調子で、無事に紗耶香からすべての業務を引き継ぐことができるだろうかと不安だ。

(でも、頑張る。もう、途中で投げ出さない。家に帰ったら、すぐに今日の業務内容をまとめて見返そう。早く覚えたい)

 美樹はひとり大きくうなずいて、ふたりに「お疲れ様でした」と挨拶したあと、タイムカードを押して店の裏口から外へ出た。


 てんてこまいの日々を過ごしていると、一ヶ月弱というのはあっという間に経つものだ。

「かんぱーい!」

 美樹、拓人、拓真、それから酒宴の主役である紗耶香はそれぞれ手にグラスを持ち、その端を四人でコツンと突き合わせた。
 今夜は紗耶香の送別会である。彼女は本日をもってショコラ・デ・マノークを退職する。
 この居酒屋は拓人の知り合いの店だ。彼は顔が広く、このあたりの店のオーナーとはほとんど知り合いなのだそうだ。青年会議所の会頭をしているらしいから、そういう所以だろう。

「いいところですね」

 となりに座る紗耶香がしみじみとしたようすで言った。美樹はこくこくとうなずいて同意を示す。
 天井からいくつも吊り下がる七色のランプは幻想的だし、テーブルクロスとチェアカバー
がエキゾチックな雰囲気をかもしだしている。個室なので、気兼ねなく気分よくお酒が飲める。

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posted by 熊野まゆ at 06:32| 甘い香りと蜜の味《連載中》

2018年02月12日

甘い香りと蜜の味05



「あの、私……包装紙を買ってきます……」
「ええ、気をつけて。大丈夫よ、私も最初は全然だめだったから。数をこなせば何とかなるわ。あ、領収証を忘れないようにもらってきてね」
「はい。行ってきます――」


 その日の夜、美樹は店のぶんとは別に包装紙を買って自室で梱包の練習を繰り返した。
 一枚の紙を擦り切れるまで使って、その上で三十枚は消費したころに、ようやく、何とか見られる形になってきた。
 部屋に散乱する失敗作の山をそのままにして、美樹は夜風に当たるべくバルコニーへと出る。

「あ……」

 またしても拓人にばったり出くわした。彼はティーカップを片手に夜空を見上げていた。

「美樹ちゃん。お疲れ様」
「お疲れ様です」

 今日も湯上がりらしく、髪の毛は少し濡れていて、しかもワイシャツの胸もとがはだけていた。目のやり場に困って、美樹は彼が手に持っていたティーカップをじいっと見つめる。

「ハーブティーなんだけど、美樹ちゃんも飲む?」

 ティーカップを差し出される。そればかり見つめていたせいで誤解させてしまった。手を伸ばせばカップを受け取れる距離だったが、美樹は首を横に振った。

「あ、そうだよね。俺の飲みかけなんていらないよね。ごめん、へんなことして」
「いえっ、そんな……」

 ――むしろ、そうだから飲めないのではないか!
 恋い焦がれる拓人が口をつけたものを飲むなんて、下心がありすぎて、できない。
 美樹がうろたえているあいだに、拓人は身を乗り出して彼女の部屋のなかを見た。

「あ、ごめん。勝手にのぞき見しちゃって……。何か俺、失礼なことばっかりしてるね」
「い、いえ」

 美樹の頬が赤くなる。部屋のなかは散らかしたままバルコニーへ出てきてしまったので、恥ずかしい。
 赤い頬のままうつむく美樹を見て、拓人はほがらかに笑んだ。

「頑張ってるみたいだね? ありがとう。でもあんまり根を詰めないでね」

 うつむいたまま、美樹は「はい」と返事をする。

「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」

 部屋のなかへ入っていく彼を見送ったあとで、美樹もまた自室へ戻った。



「おっ? 何だ、できないできない言ってたわりに、けっこうマシじゃん」

 閉店後。カウンターの前で四苦八苦していた美樹の手もとをのぞき込み、拓真は軽口を叩く。

「まぁでも、あとちょっとって感じかな。コツがあるんだよねー」
「コツ? なあに、教えて」
「どうしよっかなぁ」


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posted by 熊野まゆ at 06:48| 甘い香りと蜜の味《連載中》

2018年02月11日

甘い香りと蜜の味04


 翌日、美樹はさっそくスイーツショップ『ショコラ・デ・マノーク』に出勤した。制服はまだないので、白いワイシャツに赤いエプロンをつけ、ネームプレートには『研修中』がくっついている。

「きっ、今日からどうぞよろしくお願いしますっ!」

 店の奥にある事務室で美樹は紗耶香に向かって深々と頭を下げた。これから一ヶ月弱、彼女に販売業務を教わることになる。拓真はいま大学で講義を受けているので、不在だ。

「ふふ、そんなに気負わないで?」

 紗耶香は力の入りすぎた美樹の両肩をポンッと叩いた。そんなふうにされると少しだけ気が楽になる。美樹は紗耶香につられて笑顔になった。

「このお店――美樹ちゃんも知ってると思うけど、じつはネット販売とか、式場へのケーキの配達とかがメインなのよ」
「あぁ、なるほど」

 住宅街の奥まったところにあるからか、訪れる客はそれほど多くない。しかしネットや、周辺地域での評判はとてもよい。
 スイーツショップランキングではいつも上位だし、著名人のブログで紹介されているのも見たことがあるが、いずれも住所は非公開なのである。店が住宅街にあるので、周囲に配慮してのことだろう。ネットの受注と、コンスタントに受注するウェディングケーキの製作だけで手いっぱいで、訪問客まで手がまわらない、というのもあるかもしれない。

(いまだってパティシエは拓人さんだけだし)

 ショコラ・デ・マノークが拓人の父親の代だったとき、彼は人を雇って事業拡大しようとは考えていなかった。いつだったか彼ら家族を夕飯に招待したとき、拓人の父は「家族が食べていけるぶんだけ稼げればいい」と、うちの父親相手に話しているのを聞いたことがある。

「――だから、店を訪ねてくるお客さんの相手よりも、ネットでの受注品の確認と、発送準備が主な仕事よ」
「そうなんですか」
「そうなんです。ええと――」

 紗耶香は身をかがませ、テーブルの上に載っているノートパソコンをのぞき見る。

「今日は、ギフトのお届けがけっこう多いわね。梱包を手伝ってくれる? お店のほうは、チャイムが鳴ったら出ていけばいいから」
「はいっ、わかりました!」

 そうして美樹は、焼菓子の梱包に初挑戦する。

「ここを、こうして……うん、そうね。……ええと、うん」

 紗耶香が苦笑いを浮かべる。いっぽうの美樹は、いまにも泣き出しそうな顔になっていた。
 透明のフィルムに入ったクッキーを箱詰めして包装紙で巻く、という作業を小一時間ほど続けているのだが――まったくもってうまくいかない。一体何枚、包装紙を無駄にしたことだろう。

(もうーっ、私ってどうしてこう、不器用なんだろ!?)

 自問したところで始まらない。買い置きの包装紙がすべてなくなってしまった。

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posted by 熊野まゆ at 07:02| 甘い香りと蜜の味《連載中》

2018年02月10日

甘い香りと蜜の味03



「ああ、そうだ。南さんが結婚退職するから、ちょうど販売員の募集をかけようと思っていたところなんだ。次の職が見つかるまでのつなぎでもいいから……美樹ちゃん、どう?」
「えっ……。わ、私でいいんですか?」
「もちろん。僕らの店のケーキをこんなにたくさん食べて愛してくれてる美樹ちゃんなら、むしろ大歓迎だよ」

 ――ああ、どうしてこの男性《ひと》はこう、乙女心をくすぐるようなことばかり言うのだろう。
 これだから、顔を合わせるたびに『好き』の度合いが増してしまう。
 嬉しさと、心のなかでふくれ上がる気持ちがないまぜになって、目頭が熱くなる。
 美樹は何とかして涙をこらえながら拓人に言う。

「ありがとうございますっ……。よろしくお願いします!」


 自宅に戻った美樹は夕飯の席で両親に仕事のことを報告して、入浴を済ませて自室へと引っ込んだ。

(お母さんたち、驚いてたなぁ……)

 それもそうだ。半年前に就職した娘が早々に会社を辞め、となりのスイーツショップに再就職することになったのだ。
 「おまえがいいと思う場所で働きなさい」という父親の言葉には救われた。ふだんは寡黙な父だが、ここぞというときには欲しい言葉をくれる。
 母親もまた寛大で、「それはよかったわね」と大喜びしてくれた。
(私って本当、恵まれてる。もうこれ以上のことはない)
 美樹はベッドのなかに潜り込んだものの、寝付けなかった。今日だけでいろんなことがありすぎて、頭が冴えている。
 ベッドから抜け出し、バルコニーへ出る。すぐ目の前はスイーツショップの二階――住居スペースがある。バルコニー同士を突き合わせる形で隣接している。
 バルコニーの柵に手をついて夜空を見上げる。
 今宵は満月。まばゆいけれど、いつまででも見ていたくなる美しい月だ。
 ガラガラッ、と引き戸が開く音がした。その音で美樹は顔を正面に向ける。

「あ……拓人さん。こ、こんばんは」
「うん、こんばんは。なにしてるの?」
「ええと……月を見てました」
「月、か」

 向かいのバルコニーにいる拓人が天を仰ぎ見る。美樹は今度は月ではなく彼に、釘付けになった。
 月明かりに照らされた黒髪は、湯上がりなのかきらきらときらめいている。どんな角度から見ても彼の顔だちは均整が取れていて美しく、文句のつけようがない。性格にしてもそうだ。

(男のひとに向ける言葉じゃないけど、拓人さんは『高嶺の花』って感じなんだよね)

 そういうわけで気後れして、想いを告げたことは一度もない。
 失業したその日に再就職が決まっただけで幸せなのだ。
 ――だから、彼とどうにかなりたいなんて、望むべきではないのである。

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posted by 熊野まゆ at 07:37| 甘い香りと蜜の味《連載中》


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