2017年03月25日

伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 終章02


 光陰矢の如し、披露目の夜会はすぐにやってきた。
 いままでレッスンをしてきたのは閑散としたダンスホール。それを見慣れていたせいか、人であふれかえっているいまはとてつもなく息が詰まる。

「……あまり気負うな。べつに上手く振る舞えなくてもいい。俺は外聞は気にしない。そもそも俺自身、愛想がよくないからな」

 ダンスホールに入るなり固まってしまったエリスをジェラルドがフォローした。

「確かに先生は無愛想ですけど、だからって……私までそうだったら、伯爵家の評判がガタ落ちじゃないですか」
「そんなもの、気にならない。伯爵家が潰れても医者として食っていけるしな」
「なっ……」
「――冗談だ。使用人達を路頭に迷わせる気はさらさらない。まあとにかく、なにが言いたいかというと……わかるだろう? さっさと挨拶まわりを済ませるぞ」
「あ、待ってください」

 先に歩き始めてしまったジェラルドをあわてて追いかける。仰々しく裾が広がった豪奢なドレスは着慣れているはずもなく、またいつものように小走りするわけにもいかない。せめて立ち居振る舞いくらいはそれらしくしていなければ、ダンスやマナーのレッスンを施してくれた講師たちに面目が立たない。
 主催者としての挨拶を貴族一人一人に始めたジェラルドの傍らでエリスはひたすら笑顔を張り付けた。「こちらは私の婚約者のエリス・ヴィードナーです」と、もう何度紹介されたか知れない。しだいに「エリス・ヴィードナー」という別の人間がいるのではないかと思ってしまうくらい、ジェラルドの紹介は無味乾燥としたものだった。

「ああ、これは……お忙しいところようこそ」

 珍しくジェラルドの声音が弾んだ。彼がいま話をしている相手は、エリスも何度か見かけたことがある、医薬品を扱う事業を展開している青年子爵だった。

(……私はこのまま待っていればいいのよね?)

 ジェラルドは青年子爵とすっかり話し込んでしまっている。二人は小難しい話をしている。とても会話に割り込める雰囲気ではないし、まだ挨拶まわりの途中だから一人で勝手にこの場を去るのもどうかと思う。

「――あらぁ、ひとりぼっちでお可哀想に。話し相手になって差し上げましょうか?」

 聞き覚えのある甲高い声に、エリスは瞬時に総毛立った。
 ちらりと振り返るとそこには、扇で口もとを隠しているコレット嬢の姿があった。エリスは心の中だけで「げっ」と言いながら引きつった笑みでやり過ごす。まともに相手をするのは癪だ。ジェラルドが側にいるからにはさすがに体当たりはしてこないだろう。

「そのドレス、よくお似合いでしてよぉ。貧相な……あぁ、失礼。華奢なお体が上手くカバーされていらしてよ」
「そうですか。私にはもったいないくらいのお言葉をありがとうございます。コレット様も、よくお似合いですよ。目にとても鮮やかなドレスですね。まるで……朝露を弾く苺のようにみずみずしくお美しい」

 まるで鮮血のよう、と言いたいのをグッとこらえてエリスはぎこちなくほほえむ。いっぽうコレットはさも当然とばかりに顎を上げて微笑した。嫌いな相手といえど褒められて悪い気はしない、といったところか。

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2017年03月24日

伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 終章01



「もう一度お願いします」

 伯爵邸内のダンスホールで、エリスは講師に向かって言った。彼女の鼻息は荒い。

「で、ですが……。そろそろご休憩なさっては?」

 ダンスレッスンの講師が苦笑する。本来なら彼がエリスにダンスを手ほどきするのは来週からのはずだっただが、エリスのたっての希望で前倒しになったのである。

(上手になって、ぎゃふんと言わせてやるんだから!)

 ぎゃふんと言わせたい相手はジェラルドではなく彼の年老いた親類たちだ。
 先日、物見遊山さながらにやって来て、口々に「平民風情が、ダンスもまともに踊れないくせに」と言うのだ。
 そんなことを言われれば是が非でも踊れるようになって、目にもの見せてやりたくなる。そうして意気込んだ矢先、

「――怪我人は休んでいろと言ったはすだが?」

 咎めるような低い声がダンスホールに響く。エリスはギクリとして声の主を振り返った。ホールの入り口にはしかめっ面のジェラルドがいた。腕組みをして、不機嫌そうな視線を寄越してくる。

「手の怪我は大したことないですってば。もう傷もふさがっていますし」

「うるさい。医者の言うことは素直に聞け。きみ、今日はもう帰っていい。彼女になにを言われても、レッスンは来週からだ」
「は、はい」

 八つ当たりのごとくジェラルドに凄まれ、ダンスレッスンの講師はそそくさと荷物をまとめてダンスホールを去った。

「まったく、きみは……」

 やれやれといったようすでジェラルドがホールの中に入ってきた。

「だって悔しいじゃないですか、あんなこと言われたら。それに……先生に恥をかかせたくない」

 来月初めの夜会で、ジェラルドの婚約者として正式に披露されることになっているのだ。うかうかしていたらあっという間にそのときがきてしまう。
 ジェラルドが哀しげに眉根を寄せる。

「言いたいやつには言わせておけばいい。俺はきみがどれだけダンスが下手で粗相をしようとも恥ずかしいとは思わない。きみが隣にいるだけで、俺は――」

 言葉を切り、口もとを手で押さえるジェラルド。その頬は赤みを帯びていた。

(な、なっ――)

 ガラにもないことを言わないで欲しい。こちらまでつられて恥ずかしくなってしまう。エリスはジェラルドと同じ顔色になってうつむいた。返す言葉が見つからない。

「と、とにかく……いまは本を読むくらいにしておけ。ほら、ダンスやマナーの本を持って来た。俺の執務室で読むといい。行くぞ」

 手を引かれて歩く。肌が触れ合っている部分が熱い。手をつなぐのなんて今さらだというのに、どきどきと胸が高鳴って仕方がなかった。
 彼の執務室に着くと、なかば無理やりソファに座らされた。ジェラルドはご丁寧に茶まで淹れてくれた。これではどちらが主人なのかわからない。

(先生に心配をかけない程度に頑張ろう)

 勉強して、よく寝て、体調を整えて早く怪我を治そう。
 すべては、愛しい彼のために。

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2017年03月19日

伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 第六章05


 声を真似ているとも思えない。あまりに自然な声音だ。

「あなた、は……?」

 いったい誰なの。なぜ、こんなにもそっくりなの。
 向かい合うとまるで鏡を見ているようだった。背の高さまで同じなのだ。
 自分ではない自分の目から涙がこぼれる。なぜ泣いているのだろう。
 瞬きをして、改めて彼女を見ると――そこに自分の姿はなかった。
 だが、よく知っている人だった。

「リリアナ……?」

 涙を流していてもその美しさは損なわれない。
 いったいなにがどうなっているのか、わけがわからない。でも確かに、いま目の前にいるのは同僚のリリアナだ。

「……っ、ごめん、なさい」
「え――っ、あ!」

 リリアナは目尻の涙を指で拭い、部屋を出て行ってしまった。
 エリスとジェラルドはその場に立ち尽くした。追いかけようにも、足が動かない。全力疾走してここまで来たせいもあると思うが、驚きのあまり微動だにできなかった。
 ――妬みは時に人をも死に至らしめようとする。誰もが抱いたことがあるでろう、身近な感情。愛ゆえに生まれる狂気。

(私だって……新しい看護助手が女性だったらきっとひどく妬んだ。さっきだって……私に成り代わった彼女に嫉妬した)

 いま目の前にあるものを大切にすればこそ生まれるものだが、その感情は必ずしも報われるわけではない。一方通行に終わることが多いなか、ジェラルドと身も心も通じ合わせることができたのは幸運だし、またそれを護っていかなければならないと思う。

「――おい」

 ジェラルドの呼びかけでエリスは我に返る。

「どういうことだ。医科学的に説明しろ、エリス」
「わ、私にわかるわけないじゃないですか!」

 ジェラルドに向き直り、エリスは「うーん」とうなりながら左手をあごに当てた。

「幻覚を見ていたんでしょうか……」

 人の姿が突然、ああも一変するなどあり得ない。だとすれば幻覚を見せられていたと思うよりほかにない。
 エリスの言葉にジェラルドはなにも答えなかった。その視線は彼女の左手に集中している。

「……エリス、その、手は」
「えっ? あ……! すみません、空き部屋のガラス扉を割ってしまいました。お給金から引いておいて下さい」

 エリスは飄々と左手を見下ろしながら言う。

「ちょっと手当してきます。診察室に行ってきますね」

 きびすを返したエリスをジェラルドが引き止める。
 何事だろうと思って彼を見上げると、ジェラルドは顔面蒼白でわなわなと唇を震わせていた。

「ここを動くな! 俺が戻るまで寸分も違えずそこにいろ!」

 絶対だ! と声を荒げてジェラルドは言い足し、あわてた様子で執務室を出て行った。
 それから間もなくして救急箱を片手に戻ってきたジェラルドに、エリスはさんざん小言を言われながら傷の手当てを受けたのだった。

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2017年03月18日

伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 第六章04


 ガシャンッと小気味よい音がした。いや、ふだんならばガラスが割れる音は歓迎すべきものではない。こんな状況だからこそだ。

「割れた……!」

 ガラスにはこぶし大ほどの穴ができた。
 初めからこうしていれば痛い思いをせずに済んだのに。

(まあ、とにかく……これで部屋の中に入れる)

 割り破いた穴から中へ手を差し入れてドアノブの鍵をひねり開ける。
 泥棒にでもなった気分だ。ここが二階でなければガラス扉を割り破ることなんてできなかっただろう。一階の窓ガラスはもっと分厚いし、鉄格子がついているところもある。
 空き部屋は予想どおり施錠されていなかった。難なく部屋を出たエリスは一心に駆けた。走っているあいだも左のこぶしがずきずきと痛んだ。

(でも平気よ、このくらい)

 ジェラルドの身に起こっているであろうことを思うと手の傷よりも胸のほうが痛む。
 コレットは整形してまでジェラルドを手に入れたかったのか。すさまじい根性だ。
 途中、足がもつれて何度も転びそうになった。ここのところ寝てばかりでろくに歩いていなかったせいだ。ふくらはぎが痛い。

(今日は休診日だから、執務室にいるはず)

 なまりきった重い足を叱咤して執務室へ駆けつけ、エリスはノックもせずに扉を押し開けた。

「私が本物です!」

 弾んだ息で言い放つと、そこにいたふたりがいっせいにこちらを見た。
 ――ジェラルドによって顔にメスを突きつけられている自分が、そこにいた。

「な、なにしてらっしゃるんですか!? 顔に傷をつけるなんて、ダメですっ!」

 エリスはもう一人の自分をジェラルドからかばうようにして彼の前に立ち塞がる。
 ジェラルドは唖然としながらもエリスに問う。

「おい……なぜだ。まさか双子の姉妹だとでも言うんじゃないだろうな」
「ち、違います、けど……たぶん」

 産まれてすぐに生き別れた姉妹がもしいるのならばあり得るかもしれないが――それはまずないだろう。

「その女の顔にはすでにメスが入っていることだろう。それにそいつはきみに成り代わろうとしていたんだぞ。なぜかばうんだ」

 エリスは背にかばっている彼女を見やった。驚いた様子でこちらを凝視している。

「……たとえそうだとしても、先生を想ってのことでしょう。気持ちは、痛いほどわかる」

 しん、とあたりが静まり返った。その静寂を破ったのはもう一人のエリスだった。

「……ばかね、エリスは。こんな私をかばうなんて」
「――!?」

 どういうことだ。彼女は顔だけでなく声も自分と似ている。コレットの声とは明らかに違う。コレットのそれはもっと甲高く、いつもキンキンと頭に響くほどだった。

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2017年03月17日

伯爵は肉欲旺盛なお医者さま 第六章03


「あ、れ……っ?」

 ガラス扉を開けようとノブをまわすものの、動かない。
 内側から鍵が掛かっている。それもそうだ。いくら空き部屋だからといってバルコニーへ続く扉の鍵まで開けっ放しのはずかない。なにかの拍子に扉が開いてしまったら雨風が侵入して大変なことになる。
 エリスはがくりとうなだれた。強風が肌と髪を撫でる。少し寒い。
 自分とそっくりなあの女性は――やはりコレットなのだろうか。
 もともと髪の色が似ていたし、造作については……よくわからないが、もしかしたらベースは似ていたのかもしれない。
 彼女はジェラルドになにをするつもりなのだろう。

(私のふりをして、すること……)

 もしコレットなのだとしたら、ジェラルドに危害を加えるとは思えない。彼女はジェラルドを好いているからだ。

(だったら、私の姿で嫌われるようなことを言う、とか? あるいは――)

 思い至ると、どろりとした感情がどこからともなく湧き上がった。
 ――いやだ、嫌だ!
 たとえ姿形が似ていようとも、自分以外が彼に触れるのが許せない。
 あの唇に、その秘めたところに触れていいのは――

(私だけよっ)

 傲慢だ。そうは思えど仕方がない。自分がこれほどまでに独占欲が強いのだとはいまのいままで知らなかった。
 エリスはガラス扉をじいっと見つめた。ガラスはさほど厚くない。叩き破れるのではないか。
 息を呑み、左手に握りこぶしを作ってコツンとガラスに当ててみる。

(素手じゃ無理ね……)

 スカートのポケットからハンカチを取り出し、左手にぐるぐると巻いた。叩きつける面を厚くしたつもりだが、この薄い布では大して緩衝できないかもしれない。それでもないよりはマシだ。
 風が強く肌寒いはずなのに汗が出る。エリスは胸に手を当てて呼吸を整えたあと、思い切ってこぶしをガラスに向かわせた。

「――っ、ぃ……!」

 痛い。とんでもなく痛いのに、ひび一つ入っていない。

(もう一回……)

 今度は先ほどよりも遠くから勢いよくこぶしをガラスに打ち付けた。
 エリスの顔が痛みに歪む。

「どうして……」

 涙声でつぶやいてみたところで現実は変わらない。ガラスにはひびが入っただけだった。これではとても、そこから中に手をくぐり込ませて鍵を開けるなどという芸当はできそうにない。
 こぶしに巻きつけたハンカチからは血がにじんでいた。皮膚が切れてしまったらしい。
 愕然とこうべを垂れた。このままここで指をくわえて助けを待つしかないのか――。
 ふと目に入ったのは自分自身の茶色い靴。
 エリスはうつむいたまま「あっ」と声を上げた。

(靴のかかとでガラスを割ればいいんだわ!)

 どうしてもっと早く気がつかなかったのだろう。
 右足の靴を脱ぎ、かかとの硬い部分をガラス面のひびが入っているところにぶつけてみる。

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