フィースに、部屋に来るようにと一方的に頼み込んだ日の夜、アリシアはネグリジェの上にガウンを羽織っただけの恰好で自室のソファに座っていた。
かたわらにはティーセットを乗せたワゴンを準備している。
(昔はよく本を読んでもらっていたっけ……)
アリシアが手にしているのは『ノマーク神話全集 その2』だ。
夕刻、閉架書庫で見つけた『聖地』というのは、この本に描かれている場所のことだ。
ノマーク神話はシュバルツ国の実在の場所をもとに作られている。アリシアはこの物語の舞台に赴くのが大好きだった。
きっかけはフィースだった。アリシアがまだあまり文字が読めない時分に読み聞かせをしてもらい、さらには物語に登場する場所が実在すると知り、ふたりで城を抜け出して聖地を巡ったものだ。
幼少のころは、抜け出すといっても城の近くばかりだったが、いまならもっと遠くまでふたりで行くことができる。物理的には、できる。あとはフィースがその気にさえなってくれれば――。
コン、コンッというひかえめなノック音でアリシアはパッと顔を上げた。
あわてて立ち上がり、訪問者を確かめもせずに扉を開けた。
「――アリシア。そう簡単に寝室の扉を開けるのはよくないと、いつも言ってるだろ」
「フィース! 来てくれたのね、ありがとう。さあ、入って」
「ああ……」
フィースは『やれやれ』といったふうに眉尻を下げたあと、扉の外に控えていた見張りの騎士団員に目配せをしてアリシアの寝室に入った。
「さあ、座って。すぐにお茶を淹れるから。あ、スコーンもあるわよ。あなたの好きなミックスベリージャムも」
「いや、長居をするつもりはないから。……それで、用件は?」
「……お茶の一杯くらい、いいじゃない」
アリシアは唇を一文字に引き結んでティーポットに手をかける。茶葉やティーカップは侍女が準備してくれていたので、お湯を注ぐだけの状態だった。
オレンジティーをふたつと、それからいくつかのスコーンをソファの前のローテーブルに並べる。フィースは扉の前に突っ立ったままだ。
「……フィース」
アリシアはクイッ、と彼の上着の袖を引いた。フィースはまだ団服のままだ。帯剣もしている。きっとまだ夕食もとっていないのだろう。あまり引き留めては悪いとわかってはいる。
「手短に済ませるから……お願い」
クイッ、クイッと何度も白い袖を引くと、フィースはどうしてかバツの悪そうな顔をした。いかにもしぶしぶと、重い足取りでソファに腰をおろす。
(……どうして端っこに座るんだろう)
ティーカップはソファの中央に並べて置いた。それなのに、フィースはソファの端に腰掛けてしまった。
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