2016年02月08日

クールでウブな上司の襲い方1-01


 冬の終わり、春の兆しが道端のあちらこちらで見えはじめたある休日の昼下がり。
 築30年はゆうに超えているであろう木造平屋建住宅の前に立ち尽くし、磯貝 優樹菜《いそがい ゆきな》は「ふうっ」とため息をついた。

(おばあちゃんったら、いままでよくひとりでやってきたなぁ……)

 優樹菜の祖母は祖父が他界したあともずっとこの下宿をひとりで切り盛りしていた。庭もさることながら、この木造住宅は平屋とはいえ広い。掃除だけでも一苦労だ。
 ここ、岩代荘は優樹菜の祖母である岩代 節子《いわしろ せつこ》がひとりで営む下宿屋だ。
 台所と風呂が共同だが、そのかわり節子が一切の家事を引き受けている。家賃にそうした家事料は含まれているものの、微々たるものだと母親から聞いていた。

(さて、もの好きな住人にさっさと挨拶をしよう)

 優樹菜は玄関チャイムを鳴らして、住人が出てくるのを待った。
 いまこの下宿屋に祖母はいない。庭を掃除しているときに足を滑らせて転び、骨折してしまったのだ。前日の雨で土がぬかるみ、雨水が溜まったくぼみに足を引っかてしまったという。
 そこで、優樹菜に白羽の矢が立った。
 優樹菜の母親は健在だが父方の祖父母の介護で忙しい。そのため、この下宿屋の近くに住み、派遣会社を通して事務の仕事をしている孫の優樹菜が節子の代わりに一ヶ月間だけ家事を担うことになったのだ。
 とはいえ家事はそう大変なことではない。この岩代荘に下宿しているのはいまはたったひとりだけだ。住人が学生のときからずっと、かれこれ十年ほどここに祖母と一緒に住んでいるらしい。
 祖母が骨折して入院することになり、下宿屋の住人は自分で家事をすると申し出た。では家賃を減額しよう、という節子に対し、住人は首を縦に振らなかった。
 節子が入院しているあいだもそれまでと同じ家賃を払うとかたくなに言ったらしい。それでは申し訳が立たないということで、優樹菜が呼ばれたというしだいだ。

(なんていうか……。おばあちゃんもそのひとも、律儀よね)

 優樹菜はもう一度、玄関のチャイムを押す。
 どこか古めかしい、ポーンという音が岩代荘に響いているのがわかった。

(……留守では、ないよね?)

 住人は会社勤めのサラリーマンで、土日は休みだという。今日は日曜日だし、節子の代わりとして優樹菜がここへ住み込むことは知らせてあるはずだ。
 優樹菜は右の肩にかけていたボストンバッグを持ち直し、玄関扉の引き戸に手をかけた。かたかたっ、と扉がひらく。鍵はかかっていなかった。

「お、お邪魔しまー……っす!?」

 バフンッ、と鼻がなにかにぶつかった。跳ね返されてよろける。

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posted by 熊野まゆ at 07:20| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年02月10日

クールでウブな上司の襲い方1-02


 打ち付けてしまった鼻を押さえ、眉間にシワを寄せて、いったいなににぶつかってしまったのだろうと見上げてみる。
 長身の男がひとり、立っていた。見覚えのある顔だ。

「ぎゃ……!」

 いまのは、驚いて出た声ではない。心の声を漏らしそうになっただけだ。

(黒縁メガネにスウェットだなんて、ギャップ萌え! ……って、そうじゃなくて)

 優樹菜が「あのっ、そのっ」としどろもどろしていると、先に男が口をひらいた。

「あー……。きみ、事務の……磯貝さん。なんでここにいるんだ」

 抑揚のない、平坦でクールなしゃべり方はいつも通りだ。

「えっと、私、岩代節子の孫なんです。今日から一ヶ月間、ここに住み込みで働くことになって――」
「その必要はない。帰ってくれ」
「ええっ!?」

 ぴしゃっ、と引き戸が閉まった。まさに締め出されてしまった。

「そんなわけにはいきません! ねえっ、開けてください!」

 下宿屋の家事手伝いだなんて、男のひととふたりきりだなんて――と、じつはしぶしぶここへやって来たわけだが、憧れの上司である柏村 慎太郎《かしわむら しんたろう》と同居できるチャンスとなれば話はべつだ。そう簡単には引き下がれない。
 下心を隠しつつ優樹菜はドンドンッと引き戸を叩く。

「主任っ、なかに入れてください! 私、おばあちゃんとの約束をたがえたくないんです! おーねーがーいーしーまーす〜っ!!」

 最後の一文は大声で言った。彼には絶対に聞こえていると思う。
 しばしの間があって、引き戸がカラカラとおそろしくゆっくりとひらいた。
 柏村主任はひどく不機嫌そうな顔でこちらを見おろしている。

「は、はは……。とにかく、家のなかに入れてください。ね?」

 押しかけ女房さながらのセリフを吐きつつ、痛いくらいの視線を感じながら玄関の土間へと足を踏み入れる。なかに入ってしまえばコッチのものだ。
 家のなか、玄関から入ってすぐの廊下はさほど散らかってはいなかった。祖母の節子が入院してまだ間もないからだろう。祖母はとてもきれい好きだ。

(家を預かるからには、きれいにしておかなくちゃね)

 ホコリがたまりそうなところをチェックしつつ長い廊下を歩いて台所へ向かう。

「……きみ、家事なんてできるのか?」

 ななめうしろからいぶかしげな声で尋ねられた。ずいぶんとぶしつけな物言いだ。自分は彼にどういうイメージを持たれているのだろうかと不安になる。

「なっ……! そりゃ、おばあちゃんほどじゃないと思うけど……そこそこ、できます。……た、たぶん」

 ここで『家事ができる』などと断言してしまったら、のちほど文句を言われても反論できないので保険をつけておく。ちょっとずるいかもしれないが、それを理由に追い出されかねない。
 来たばかりだというのに、追い出されないか心配するのも癪な話だが。

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posted by 熊野まゆ at 06:55| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年02月12日

クールでウブな上司の襲い方1-03


 やや憤然と歩を進めて台所に到着する。

「うわ……」

 またしても心の声が漏れてしまった。台所がカップラーメンの山だったからだ。
 スウェットに黒縁メガネ、そしてぼさぼさ頭の上司を振り返って優樹菜は言う。

「少なくともカップラーメンよりはこったものを作れますっ」

 得意げに『どやぁ』と言ってのけたが、柏村主任はふいっ、とそっぽを向いただけだった。

「それにしても、まさか主任がここの住人だったなんて……」

 優樹菜は台所の片付けをしながらつぶやいた。
 住人の名は苗字しか聞いていなかった。

(そういえばおばあちゃん、男性だけど信頼できるって言ってたっけ)

 まさかそのひとが、現在の派遣先である熊野SWテクノロジー株式会社でシステムエンジニアとして働くクールなイケメン上司、柏村 慎太郎だとは夢にも思わなかった。
 見も知らぬ男性とひとつ屋根の下だなんて、と尻込みする優樹菜に、節子はしきりに『彼は大丈夫』と太鼓判を押していた。十年も一緒に住んでいて情が湧いているだけなのでは、と思っていたが、たしかに会社でも彼は素行がよく優秀だ。
 たとえいまは、さえないグレーのスウェットを着ていても、秀麗な顔立ちとクールな雰囲気は健在なので服装うんぬんはさほど気にならない。むしろそのギャップがよい。

「――私、けっこうここに遊びに来てたんですよ?」

 彼を盗み見ながらやかんで湯を沸かしつつ話す。
 柏村は台所と続き間になっている畳の部屋であぐらをかいてテレビを見ている。
 優樹菜がここを訪れるのは初めてではない。ひと月に数回は祖母の顔を見に来ていた。

「……休みの日は俺はほとんど部屋に引きこもってるからな」

 ――ということは、いまは恋人はいないのか。

「そうなんですか」

 丸くて広いちゃぶ台の上にしたり顔でお茶を置き、彼からは少し離れて畳の上に正座した。柏村はテレビに目を向けたまま湯呑みを手に取り、ずずっ、とひとくちだけ緑茶をすすった。

(ええっと……。なにか会話を)

 会社ではいつも近寄りがたい雰囲気なので、業務に必要な最小限のことしか話さない。

(でもでもっ、ここでアピールしておかなくちゃ……!)

 まわりの女性の目もなくふたりきりという絶好の機会だ。
 ここに住むのは祖母が退院するまでの一ヶ月間だけ。それまでに、柏村主任をモノにしたい。彼には淡い恋心を抱いていた。

「あ、あのっ――」
「きみは本当にここに住む気なのか?」
「……え」

 口をひらいたままピタリと止まる。
 仲良くならなければ、と躍起になる優樹菜とは裏腹に柏村はいまだに、同居する気はないらしい。

「独り身の男女がひとつ屋根の下、というのはまずいだろう。それに俺ときみはいま同じ職場で働いているわけだし。妙なうわさでもたったら、きみが困るだろ」

 いいえ、むしろうわさになりたい! ――と喉まで出かけて、しかしグッとのみこむ。

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posted by 熊野まゆ at 07:15| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年02月15日

クールでウブな上司の襲い方1-04



「だ、大丈夫ですよ……! ほら、出社時間も違いますし、たった一ヶ月だし」

 優樹菜は朝10時から夕方は4時までが業務時間だが、正社員の彼は9時5時だし、残業もある。
 柏村は緑茶をすすったあと「ふう」と静かにため息をついた。

「ああ、たった一ヶ月だ。きみの手をわずらわせなくてもなんとかなる。俺はべつにひとりでも困らない」
「え……っと」

 しまった、話が悪い方向に進んでいる。優樹菜は「えーと、えーと」とつぶやきながらなんとか反論する。

「で、でも、でもっ……。ここ、とんでもなく広いじゃないですか。主任は夜も遅いし、掃除とか行き届かないんじゃないですか? おばあちゃん、この下宿屋にすごく思い入れがあるから……退院して戻ってきたときにここがすさんでたら、それはもうきっと悲しいでしょうね。ショックで寝込んじゃうかも! ホコリとかって、一ヶ月でもけっこうたまっちゃいますよ。台所なんてとくに、流しまわりは一ヶ月も経ったらそれはもうひどいことになりますし……」

 柏村の、湯呑みを持つ手がピクリとわずかに動いた。

(よし、いけるっ。もうひと押しだ)

 優樹菜がたたみかける。

「おばあちゃんがすっごくきれい好きなのはご存知ですよね? 私、おばあちゃんが掃除するときにどういうふうにするのか熟知してます。おばあちゃん子で、昔からいろいろ教わってました。料理もそうです。だから……お願いします。一ヶ月間だけ……私にこの家を任せていただけませんか」

 ひざの前に三つ指をついて申し入れる。
 それまでずっとテレビに向いていた柏村の瞳が横へ動き、優樹菜をとらえる。
 彼の二重まぶたは黒縁メガネの向こう側にあってもクッキリとしているのがわかった。

「……わかった」

 コトンと音がして緑色の湯呑みが茶たくに戻った。

「だが互いによけいな干渉はしないようにしよう。きみにとってもそのほうがいいだろう?」

 いいえ、むしろ干渉して欲しい! ――とまた口から滑り出てしまいそうになったところをググッとこらえて、ほほえむ。

「はい。よろしくお願いします、主任」

***

 さあ、お色気大作戦のはじまりだ。

 着替えを済ませた優樹菜は白いフリルのエプロンを身につけて「ふんふん」と鼻歌まじりに昼食を作っていた。
 柏村主任は自室にいるようなので、ある意味で気兼ねなくご飯作りに集中できている。

(夕飯の食材は買い出しに行かなくちゃね)

 昼食は冷蔵庫のなかにあったもの――おそらく祖母が買っていたものだが、残りものの食材を一掃したので、いま冷蔵庫のなかは空っぽに近い状態だ。

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posted by 熊野まゆ at 07:08| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年02月17日

クールでウブな上司の襲い方1-05


 根菜の煮物をこまめに味見しながら昼食づくりを進め、あとはよそうだけになったところで柏村主任を呼びに行く。
 台所からいちばん近いところに彼の部屋がある。いっぽう優樹菜の部屋は柏村の部屋からずいぶんと離れている。
 干渉しないように、と言われてしまったので、彼のとなりの部屋に寝泊まりするのは避け、空き部屋をふたつほど隔てた最奥の部屋を私室として間借りすることにした。

(私としては、すぐとなりの部屋がよかったけど……。さすがに、ね)

 うざったいやつだと思われたくない。断られたにもかかわらずしつこくここに住み込ませてほしいと申し出た時点ですでによい印象を持たれていないだろうから、慎重に、かつ一ヶ月のあいだにどうにかしなくてはならないのでなかなか難しいところだ。


 さて、彼を落とすための『作戦その一』はすでに遂行中である。
 優樹菜は白いエプロンの下に、胸もとが大きくあいたVネックのセーターを着ている。
 『清純そうなエプロンを脱いだら思いがけず色っぽくてドキッ! 意識しちゃう……!』という、単純だが、意識してもらうにはきっと効果的であろう方法をまずは試みることにした。
 古ぼけた板張りの上を歩き、柏村主任の部屋の前で止まる。ノックをして呼びかける。

「主任、お昼ごはんができました」
『……ああ』

 扉の向こうからくぐもった返事が聞こえてきた。彼が出てくるのをしばし待つ。

「……あの、主任?」

 おずおずと呼びかける。またしてもしばしの間があった。

『……先に台所に戻っていてくれ。すぐに行くから』
「あ、はい……」

 優樹菜はがっくりと肩を落としてとぼとぼと台所へ戻った。

(そりゃ、他人なわけだけどさ。もうちょっとこう、フレンドリーに……。いやいや、一緒に住んだからって急に距離が縮まるほど簡単にはいかないか……)

 会社では『柏村主任はガードが固い』と有名だ。どんな美人からの誘いもかたくなに断り、浮いた話はひとつもないのだ。
 きっとさぞ絶世の美女が恋人なのだろう、といううわさがあるくらいだったのだが――。

(ああ、そうよ……。休日に引きこもっているからって、恋人がいないと決めつけるのは早合点すぎたわ。遠距離恋愛でなかなか会えない、とかかもしれないし)

 あとでそれとなく探りを入れてみよう、と決意しつつ、昼食を皿によそってちゃぶ台の上に並べた。
 柏村主任はすぐにやって来た。グレーのスウェットと黒縁メガネはそのままだが、髪の毛はいくぶんか整っているような気がする。時間が経って寝癖が落ち着いただけかもしれないが。

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posted by 熊野まゆ at 05:57| クールでウブな上司の襲い方《完結》


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