2016年03月02日

クールでウブな上司の襲い方1-11


 『くまっぷまんのドキドキ大冒険、くまの王国編』を楽しく鑑賞したあとはディナーを食べに行った。
 レストランは予約してあったようで、混み合う時間にもかかわらずすんなりと席につくことができた。
 古民家風の店構えだったのではじめは和食かと思ったが、イタリアンだった。
 黒と白の正方形の畳の上に低めのテーブルと椅子が配してある。和モダンといった雰囲気だ。

(ああ、夢みたい……)

 優樹菜はコツンとワイングラスを合わせて乾杯しながらうっとりと柏村を見つめていた。

(おっと、いけない。いくらなんでも見過ぎよね)

 視覚的にもそうだが夢も見過ぎだ。向かい合って乾杯したくらいで恋人同士にでもなった気分でいたのだ。

(まだまだこれからなんだから……。しっかりアプローチしなくちゃ)

 気合いを入れるものの、すぐにそれどころではなくなる。運ばれてくる料理がとても美味しいからだ。舌つづみを打って食べ進める。

「きみは俺が思っていたよりも格段に働き者だった。さあ、どんどん飲め。働き者には存分に酒をあおる権利がある」

 酔いがまわっているのか、柏村はいつになく饒舌に優樹菜に話しかけて酒を勧めた。彼の頬はほんのりと赤い。

「ありがとうございます。では遠慮なく」

 ふだんなら多少は遠慮するところなのだが、優樹菜もまた酔って上機嫌だった。
 言われるまま、笑顔でぐいっとワインをあおった。


 帰宅したのは夜の9時すぎだった。
 優樹菜は酔いさましにと緑茶を淹れた。ちゃぶ台の前に座ってふたりでズズッと熱い茶をすする。

「主任、今日はなにからなにまで本当にありがとうございました。あの、本当によろしいんですか?」

 映画のチケット代もそうだったが、電車代からディナーにいたるまですべて彼の財布のお世話になってしまった。
 せめて帰りの電車代くらいはと思ったのだが断られてしまい――。

「気にするな。……楽しかった」
「……っ」

 楽しかった、と言われただけでも嬉しかった。それなのに、頬を赤くして微笑されてはたまらない。気分がさらに高揚してしまう。
 優樹菜は彼の笑顔を初めて目にした。
 優しげに細められた目は潤んでいる。酔っているからだろう。弧を描いた唇は美しく、すぐにでもそこを覆ってしまいたくなった。
 このときの優樹菜はどうかしていた。だから、口走ってしまったのだと思う。

「――いっしょにお風呂でもどうですか? お背中お流ししますよ」
「……は?」

 ほのぼのとした場の空気がいっきに凍りつく。

(あ……しまった)

 明らかに失言だ。柏村の顔はいつもの仏頂面に戻っている。

「はは……。すみません、冗談です。お風呂場の準備をしてきますね」

 貼り付けた笑顔のままそそくさと立ち上がる。

(そう上手くはいかないか……)

 優樹菜はトホホとうなだれて肩を落とし、ひとりさみしく浴室へ向かったのだった。

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posted by 熊野まゆ at 05:20| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年03月04日

クールでウブな上司の襲い方2-01


 節子の孫――磯貝 優樹菜が岩代荘にやって来て一週間ほどが経ったある日、会社でのことだった。

「柏村はさ、最近よく磯貝さんと話してるよね」

 喫煙スペースで一服していると、同期入社の同僚からそんなふうに話を切り出された。

「そうか……?」

 もわっ、と口から煙を吐き出しながら慎太郎は答えた。

(そんなつもりはないが……。まあ確かに、以前よりも用事を頼みやすくなった)

 彼女と同居を始めて、接する機会が増えたからというだけでなく、彼女の思いのほか真面目な仕事ぶりは信頼に値するからだ。

「ねえ、もしかして磯貝さんのこと狙ってる?」

 ベンチに並んで座っていた同僚がタバコを片手に前を向いたまま言った。
 慎太郎は「まさか」と即答する。

「じゃあ俺、飲みにでも誘ってみようっと。磯貝さん、くるくる表情が変わって可愛いよね」

 茶髪の同僚はいやしい笑みを浮かべて話し続ける。

「そしてなにより、おっぱいが大きい」
「……彼女、4時には帰るじゃないか」

 派遣社員の優樹菜は4時ぴったりに帰ってしまうから、飲みに誘うのは無理だ、と暗に告げた。

「俺、今日は朝めちゃくちゃ早く出社したんだよね。だから4時には上がれる」
「………」

 この会社はフレックスタイム制で、今日はノー残業デー。よほど急な仕事でも入らないかぎり、夕方の4時に勤務を終えることはさして難しくない。

(初めから磯貝さんを飲みに誘う気で今日は出社してきたんだな……)

 慎太郎は横目で同僚を見やった。どうしてか腹の底がムカムカする。

「――先に戻る」

 つっけんどんに言って、慎太郎は喫煙スペースをあとにした。


 慎太郎のデスクからは壁掛け時計が見えた。
 今日はやけに時間が気になってしまう。もうすぐ4時――優樹菜の業務終了時刻だ。

(……べつに、俺には関係ない)

 そうは思えど、やはり同僚の動向が目につく。
 茶髪の同僚は、帰り支度をしている優樹菜に話しかけている。
 彼女のデスクはここから離れているので、優樹菜が彼の誘いに対してどういう受け答えをしているのかサッパリわからない。ただ、ふたりともニコニコと楽しそうに会話している。

(関係ない、関係ない……)

 慎太郎は自身の眉間にシワが寄っていることに、気がついていなかった。


 その日、岩代荘には午後5時すぎに帰宅した。

「――あ、おかえりなさい」

 玄関の鍵は開いていたし、彼女の靴もいつも通り置いてあった。
 だから、優樹菜が同僚の誘いを断ったのはわかった。しかしそれはあくまで『今日』の話だ。もしかしたら、べつの日に同僚と出掛ける予定を立てているかもしれない――。

「きみは、その……今日」

 ちゃぶ台に所狭しと並べられた夕飯にひととおり箸をつけたあとに慎太郎は話を切り出した。

「はい?」

 大きな瞳が見つめ返してくる。パチリと視線が絡む。とたんに慎太郎はなにも言えなくなってしまった。

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posted by 熊野まゆ at 06:39| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年03月07日

クールでウブな上司の襲い方2-02


 オフィスでの彼女の印象は『派手』だった。茶色の長い髪の毛はいつもくるくると綺麗に巻かれているし、目鼻立ちはとてもクッキリとしていて化粧映えする。
 男遊びが激しそうだという先入観がどこかにあった。
 家事なんてできるのだろうかと思っていたのだが、節子に似た味付けの和食が振る舞われたのでまずそこに驚いた。下宿屋の掃除や洗濯も、彼女自身も他所で働いているというのにそつなくこなしている。要領がいいのだろう。
 優樹菜に好感を抱くようになったとき、『一緒に風呂にでも』と言われて少々あせった。
 正直なところ、そういう気持ちが少しも湧かなかったわけではなく――。
 いや、節子さんの孫なのだ。間違いがあってはならない。

「――主任?」
「……っ」

 潤みを帯びた黒目がちの目で顔をのぞき込まれ、慎太郎はハッとしてあらぬほうを向いた。

「あ、いや。なんでもない」
「……そうですか?」

 かわいらしく小首をかしげている彼女を盗み見ながら慎太郎は夕飯の煮物をパクパクと口に運んだ。


 翌日、慎太郎は「ふう」と長いため息をついて喫煙スペースにいた。

(やはり尋ねておくべきだった)

 優樹菜が同僚の誘いを断ったのかあるいは先延ばしにしたのか、どちらなのだろうと気になってあまりよく眠れなかった。
 慎太郎は咥えて間もないタバコを灰皿に押し付けて消し、ジャケットの内ポケットから新しい一本を取り出してふたたび口に咥えた。
 煙で輪を作って遊んでいるときだった。

「お疲れ〜」

 目下の関心事項である茶髪の同僚が喫煙スペースへやって来た。
 しめた、とばかりに慎太郎の口もとがわずかにほころぶ。
 本題をいきなり彼に尋ねるのはあまりにも露骨なので、仕事の話を交えつつそれとなく訊く。

「――で、昨夜はどうだった? 磯貝さんとは」
「ああ……」

 同僚の表情がいっきに曇る。

「断られたよ。バイトがあるんだってさ。土日ももれなく。彼女、見た目によらず働き者だよね〜。なにか欲しいものでもあるのかな」

 落胆しきったようすでぼやく同僚を、内心ほくそ笑む。

「口実かもしれないぞ。おまえと飲みに行くのがいやなだけなんじゃないか?」
「えー? そうかな……。ホントに申し訳なさそうにしてたって。しばらくしたらまた誘ってみようっと」

 慎太郎が唇を引き結ぶ。

(あきらめの悪い男だな)

 あまりしつこくされたら、優樹菜はもしかしたら彼の誘いを受けるかもしれないと思った。
 同僚にはああ言ったが、彼女がいま忙しいのはまぎれもない事実だ。節子から下宿屋と、それから慎太郎の世話を頼まれているからだ。
 だが一ヶ月後ならば、わからない。いまよりは格段にひまになるだろう。となりに座っている、いかにも体目当ての軽そうな同僚と飲みに行く時間だって、じゅうぶんあるに違いない。

(だから、なんだっていうんだ。俺には、べつに――)

 言いようのないあせりが身の内に湧いてくるのには気づかないふりをして、慎太郎はタバコを灰皿にジュッ、と荒っぽく押し付けた。

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posted by 熊野まゆ at 06:45| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年03月09日

クールでウブな上司の襲い方2-03


 8歳年下の、大学生の弟――母親の違う腹違いの弟である柏村 龍之介《かしわむら りゅうのすけ》が岩代荘を訪ねてきたのは優樹菜と同居を始めて半月が経ったころだった。


「えっ、なになに!? 節子ばあちゃんの孫、めちゃくちゃ美人じゃん!」

 玄関先で弟を出迎えた慎太郎は、庭で枯葉を掃く優樹菜に熱視線を送っている弟を怪訝な顔で見つめた。

(コイツもか……)

 彼女を飲みに誘った同僚と弟が重なって見えた。

「俺よりも年上だよね? 名前は? ……もうエッチした?」

 眉間にシワが寄っている慎太郎に身を寄せ、龍之介は小声で言った。視線はあいかわらず優樹菜に向けられたままだ。

「……節子さんの孫なんだぞ。そういう関係になるわけがない」

 優樹菜の年齢と名前は伏せ、最後の質問にだけ答えた。彼女の年齢に関しては知らないところでもある。大学二年生の龍之介よりは年上だと思うが、自分よりも弟のほうが年齢的には近いかもしれない。二十代前半だと思われる。

「節子ばあちゃんの孫たから――って、べつに関係なくない? まあでも、兄ちゃんにその気がないんならよかった。俺、遊んでもらおうっと」
「あっ、おい……!」

 龍之介は「こんにちはー!」と声を弾ませて庭へ駆けていく。金色の髪が太陽光をギラギラと反射していて無駄にまぶしい。
 慎太郎はガリガリと黒い頭をかきながら、サンダルを履いて玄関から庭へまわり込んだ。

「あ、主任の弟さんなんですか?」

 突然、見知らぬ男に話しかけられて戸惑っていたらしい優樹菜はほうきを持ったまま慎太郎に確認してきた。

「ああ、そうだ。すまない、掃除の邪魔をして……。ほら龍之介、行くぞ」
「えー? 兄ちゃんてば、主任って呼ばれてんの? なんで? あ、俺のことは龍之介って呼んでね。よろしく〜」

 龍之介は強引に優樹菜の手を取りぶんぶんと上下に振って無理やり握手を交わしている。優樹菜のほうはいかにも困ったような苦笑いだ。

(だれにでも気さくなわけじゃないんだな)

 彼女が下宿屋を訪ねてきたときや、優樹菜のいままでの言動から、だれとでも積極的にコミュニケーション取れるタイプなのだと思っていたのだが――。
 もしかしたら自分だけが特別なのかもしれない、と思い至って、心と体のなにかが湧き立った。
 にわかに高揚した気分をなんとか落ち着かせて慎太郎は言う。

「おい、いい加減に手を放せ。磯貝さんが困ってるだろ」
「イソガイさんっていうんだ? 下の名前は? あ、年齢も教えてもらいたいな〜」
「えっと、優樹菜です。歳は23です」
「ユキナさんかぁ〜! 名前もすっごくかわいい。ねえねえ、掃除が終わったらどこか遊びに行かない? 庭掃除、俺も手伝うから」

 優樹菜の年齢を頭のなかにインプットしているあいだに弟が勝手なことを言い出した。

(そうか、そういう風に言えばうまく連れ出せるわけだな……って、いや、そうじゃない)

 優樹菜はどういう反応をするのだろうと、しばし様子をみる。彼女は困り顔で微笑したままだ。

「私がここを掃除しているのは、仕事だからなんです。主任からは家事を含めた家賃をいただいていて、私は祖母の代わりに働いています。だから、お客様にお手伝いしていただいて遊びに行くのは、ちょっと……。でも、ありがとうございます。あ、お茶を淹れるので、どうぞごゆっくりなさっていってください」

 優樹菜は手にしていたほうきを庭の隅に立てかけて、そそくさと玄関へ向かった。

「……意外とマジメなんだね、ユキナさん」

 申し出を断られた龍之介が、不満げに口を尖らせてポツリと言った。

(仕事だから、か……)

 慎太郎もまた落ち込んだ。
 彼女がここへやって来た日、かたくなに断っていたにもかかわらず熱心に同居を申し入れられたのは、自分に興味があるからではなく純然たる責任感からなのだと、知ってしまったからだ。
 そうして慎太郎は自覚する。
 ――優樹菜に、惹かれているのだと。

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posted by 熊野まゆ at 06:24| クールでウブな上司の襲い方《完結》

2016年03月11日

クールでウブな上司の襲い方2-04

 優樹菜の淹れた茶はいつも美味いのだが、いまはどういうわけかふだんよりもわずかばかり渋く感じる。

「えーっ、そうなんだ? それで、それで〜?」

 昼下がりに岩代荘へやって来た弟の龍之介は、優樹菜が淹れた茶を絶賛したあと、彼女が庭掃除を終えるのを待ちかまえていたばかりではなく、夕飯の支度をする優樹菜にベッタリと張り付いて親睦を深めているようだった。
 慎太郎は居間に居座っていた。ふだんなら自室にこもって読書や筋トレをしている時間だ。

「えっと、それからね――」

 優樹菜と龍之介は心なしか仲良くなっているような気がする。

(……俺にはいつだって敬語を使うくせに)

 慎太郎はテレビを見るふりをしつつふたりの会話に耳をそばだてた。
 優樹菜は龍之介に対してくだけた話し方をしている。龍之介が、自分のほうが年下だから気を遣わなくてもよい、と言ったからなわけだが、それでも腑に落ちない。

(龍之介は昔からああだ)

 20年ほど前――弟が産まれてからのことや、それ以前のことを回想する。
 実の母親は慎太郎が産まれて間もなくして亡くなった。だからいまの母親――龍之介の母親とは当然、血がつながっていない。
 幼少期はくまっぷまんと過ごした思い出しかないし、父親が再婚して家族が増えたあとも、疎外感でいっぱいだった。いまもそうだ。実家はここからそう遠くはないが、年に数回しか帰らない。
 龍之介は父親が年をとってからできた子どもだからか、弟は自分よりも父に可愛がられてきた気がする。たんなるひがみかもしれないが、そう思う。
 会話を弾ませるふたりをチラチラと眺め、ひそかにため息をつく。

(俺も、もっと積極的になれれば……)

 自分の殻に閉じこもり気味な性格だと自覚している。
 自室にあふれているくまっぷまんのぬいぐるみも、引け目のひとつだ。
 何度も捨ててしまおうと思った。しかしやはりいまだに心の拠り所なのだ。
 幼いころはくまっぷまんだけが話し相手だった。大量に買い与えられていたからだ。
 成人して就職したいまでも、雑貨屋やおもちゃ屋でくまっぷまんのぬいぐるみを探して、つい買ってしまう。優樹菜とともにくまっぷまんの映画を観たときもそうだった。
 だが優樹菜は、それを訝しんだりはしなかった。恥ずかしがりもせず一緒に映画を観てくれたことを、じつはとても感謝している。


 龍之介は粘り強く居座り、夕飯まで食べていった。夜は用事があったらしく、7時過ぎには帰って行ったので、ようやく慎太郎は落ち着くことができた。

「――飲もう。弟の相手をしてもらった礼だ」

 自室から年代物の赤ワインを持ち出し、夕飯の後片付けを終えたばかりの優樹菜を誘う。

「えっ、いいんですか? ありがとうございます。あ、なにかおつまみを……」
「チーズがあっただろ。俺はそれだけでいい」

 それじゃあ、と言いながら優樹菜はいそいそと冷蔵庫からウォッシュチーズを取り出し、皿に盛り付けてちゃぶ台の上に置いた。慎太郎はそれをぼんやりと眺めていた。

(……われながらひどい口実だな)

 弟をだしに使ってしまった。彼女とともに過ごしたい、というのが本音だというのに。
 誘い文句はどうであれ、優樹菜と少しでも長く過ごせればそれでよい。
 慎太郎はふだん座る場所よりもほんの少しだけ、彼女のほうに身を寄せた。

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posted by 熊野まゆ at 06:32| クールでウブな上司の襲い方《完結》


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