2017年09月16日

淫らに躍る筆先01


 社会人になって三年。仕事にも自信がついてきたある晩秋のころ。帰りの電車の中で同僚に「趣味はなに?」と訊かれ、悠月 和葉《ゆづき かずは》はなにも答えることができなかった。

(趣味かぁ……)

 駅から家までの見慣れた道を歩きながら和葉は「うーん」と首をひねる。この25年間、趣味もなければこれといって他人に誇れる特技もなく平凡気ままに過ごしてきた。

(お見合いとかでよくあるよね、ご趣味は――ってやつ)

 大学を卒業してから毎日が仕事漬けの和葉は男性と縁遠い。ゆくゆくはお見合いでもしなければこのまま仕事ばかりになってしまうかもしれない。

(うん、なにか始めよう!)

 いつか来るであろうお見合いの日までに趣味のひとつくらい作っておかなければ。歩道の真ん中でそう思い立ったものの、自分がいったいなにに興味があるのかすらわからない。少々情けない。

(ピアノ……とか?)

 大人のためのピアノレッスン、と銘打った音楽教室をよく目にする。そういうところに通えば手っ取り早いのではないか。

(でもなぁ……何だかいまさらって気もするし)

 そんなことを言っていたらすべてが「いまさら」だ。和葉はふるふると首を横に振る。そうして目についたのは『受講者随時募集中』という小さな貼り紙だった。

(絵画教室、か……)

 毎日通る道だというのにいままで気が付かなかったのは、そういうことにまったく興味がなかったせいだろう。自宅からほど近い交差点の角に、そのアトリエはあった。和葉は吸い寄せられるようにアトリエへと近づく。
 三階建のビルの一階がアトリエになっているようだった。ショーウィンドウの向こうにいくつかのイーゼルと椅子が並んでいる。
 今日は休講日のようだ。窓ガラスに映り込んでいるのは自分だけ。アトリエの中にひとの姿はない。

(ええと、開講日は……金曜日の夜、ね)

 和葉は絵画教室の電話番号をスマートフォンの連絡先に入力する。電話の受付時間はもう終了しているので、明日会社で昼休みにでも掛けてみよう。
 ショーウィンドウに映っている自分の顔は、冒険に出る前の子どものようにほころんでいた。


 あくる日の昼休み、和葉は休憩室の片隅で電話を掛けた。

『――はい、藤枝商事です』

 どことなく品のある女性の声だった。和葉は電話番号を間違えたのかとも思ったが、ひとまず尋ねてみることにする。

「幸紐町三丁目の角にある絵画教室の貼り紙を見てお電話いたしました。受講希望なのですが……こちらのお電話番号でよろしかったでしょうか?」
「はい、承っております。担当者に代わりますのでそのまま少々お待ちください」

 電話の向こうからカノンが流れてくる。どうやら商社が運営している絵画教室らしい。さしずめ画材を扱う会社なのだろう。

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posted by 熊野まゆ at 07:18| 淫らに躍る筆先《連載中》

2017年09月17日

淫らに躍る筆先02


 まずは絵画教室を見学してみることになった和葉は金曜日の夜が待ち遠しくてたまらなかった。この年になって、翌日が楽しみすぎて眠れないなどという体験をするとは思わなかった。和葉は自室のベッドで掛布団を口もとまでかぶせて何度も寝返りを打った。


 金曜日の夜はあっという間にやってきた。
 期待と不安に胸をふくらませながら絵画教室へと足を運ぶ。教室の受講者は若い女性ばかりだった。

(みんな私と似たような境遇なのかな?)

 そんなことを考えながら教室の端のほうに座って講師が来るのを待つ。
 間もなくして向かいの扉が開いた。絵画教室の講師というと、中年の男性だろうかと勝手な想像をしていた和葉は現れたそのひとが自分とそう変わらない年齢だったことにまず驚き、それからこの絵画教室の受講者たちが自分と同じ境遇でここにいるのではないのだとわかった。

(うわぁ……)

 女性たちがざわつくのもうなずける。講師はテレビの向こうでしか見たことのないような面立ちの男性だった。
 すらりとした長身の彼はほどよく筋肉質だ。薄い水色のワイシャツに紺色のネクタイという組み合わせは至って普通だが、彼が身につけているというだけでどうしてか艶っぽい。

「遅くなってしまって申し訳ございません」

 彼が眉尻を下げてほほえむと、それだけで黄色い声が上がった。

(なるほど、みんなこの講師が目当てなのね)

 心の中だけでふむふむと納得して、和葉は講師をじいっと見つめる。

(どこかで見たことあるような気がするけど……)

 そうだ、芸能人のだれかに似ているのかもしれない。
 ふと講師の男性と目が合った。

(あ、しまった……私ったら、無遠慮に見つめすぎ)

 あわてて目を逸らすものの、今度は視線を感じる側になった。

「……?」

 少しだけ顔を上げると、講師の男性はなにを言うでもなく驚いたような顔をしてこちらを凝視していた。和葉は意図せず怪訝な表情になる。

(どうしたんだろう?)

 受講希望の見学者がそんなにも珍しいのだろうか。和葉は唇を引き結んで肩をすくめた。


「――少しよろしいですか」

 絵画教室の見学を終えて帰り支度をしているときだった。講師の男性に呼び止められた和葉はビクッと肩を揺らした。

(受講するかどうかの話かな)

 それにしてもまわりの女性たちの視線が痛い。どの女性も「抜けがけしちゃだめよ!」と言わんばかりの強烈な視線を送ってくる。
 和葉はまわりをうかがいながら上ずった声で「はい」と返事をした。

「ではこちらへ」

 講師にうながされるまま奥の部屋へと向かう。そのあいだもずっと、女性たちの視線が体に焼け付くようだった。
 教室の奥は画材倉庫だった。新品の筆やキャンパス、絵の具が整然と置いてある。

「……和葉ちゃん、だよね?」


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posted by 熊野まゆ at 07:14| 淫らに躍る筆先《連載中》

2017年09月18日

淫らに躍る筆先03


 倉庫に入るなりそんなふうに名を呼ばれ、和葉は目を丸くする。和葉のそんな反応を見て男性は怯んだようだった。彼の眉尻が悲しげに下がる。

「あ、ええと……覚えてないかな。昔きみの家の隣に住んでた藤枝 龍生《ふじえだ りゅうせい》です」

 ――私の家の隣?
 和葉はあらためて、目の前にいる麗しい男性を見つめる。くっきりとした二重まぶた。通った鼻すじ。ほどよい厚みの唇。つややかな黒髪は蛍光灯の光でも頭に輪を作っている。
 どこか恥ずかしそうに右の頬をぽりぽりと指でかきながら龍生は長いまつ毛を伏せる。

(……あっ)

 彼のその仕草で記憶が呼び覚まされた。幼い彼が、いまと同じように右の頬をかいている姿が重なる。

「りゅうくんだ!」

 和葉がそう言うと、龍生はとたんにパアッと表情を明るくさせた。

「よかった、思い出してもらえて」

 ほがらかにほほえむその顔も、あの頃となにも変わっていない。むしろ、なぜ一目見て気が付かなかったのだろうと疑問に思えてくる。

「和葉ちゃん、大きくなったね」

 ポン、ポン。頭に感じる重みも、相変わらず。
 ――ああ、そうだ。昔もよくこんなふうに、顔をのぞき込まれながら頭を撫でられていたっけ。

「……っ!」

 あの頃は子どもだった。でもいまは、違う。
 和葉は彼の顔が間近に迫ったことに驚き、とっさに後ずさってしまう。背中は壁にぶつかったのかと思えばそうではなく、天井まで画材が並べられた高い棚だった。
 バラバラと落ちてくる筆や絵の具が頭に当たらなかったのは、龍生が身を挺して守ってくれておかげだ。
 棚の中にあったものが落ちたあとは静寂に包まれた。妙な間《ま》だ。
 龍生に抱き込まれる恰好のまま和葉は床に散乱した筆と絵の具を見つめる。

「あ……ご、ごめんなさい」

 画材を棚から落としてしまったこと、落ちてくる画材に彼が当たってしまったことを詫びる。
 しかしそれに対して龍生はなにも答えない。和葉の後頭部にまわっていた彼の手が、ゆっくりと下へ動いて彼女の腰もとをつかむ。

「俺、は……きみのことが以前《まえ》から……」

 よくある台詞の出だし。ドラマでよく聞くフレーズ。そのあとに続くのは決まって――。

『……先生? ものすごい音がしましたけど』

 扉の外からノック音と同時に響いた声に和葉はビクッと肩を揺らして彼から飛びのいた。それから間もなくしてドアが開き、何人かの女性が怪訝な顔で部屋の中に入って来た。

「すみません、棚にぶつかってしまって」

 あわててしゃがみ込み、絵の具をかき集める。すると女性たちもまた「あら大変」と口々に言って、床に散らばった画材を拾い始めた。

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posted by 熊野まゆ at 08:07| 淫らに躍る筆先《連載中》

2017年09月22日

淫らに躍る筆先04


 土曜日、和葉はスマートフォンのコール音で目を覚ました。土曜日に掛かってくる電話はたいていプライベートなものだ。母親か、あるいは友人か。和葉は相手をろくに確かめもせず寝ぼけ声で「はい」と言って電話に出る。

『和葉ちゃん? 藤枝です』
「ふじえだ……」

 しばし考えたあと、和葉は耳からスマートフォンを離す。電話相手は『藤枝商事』と表示されている。昨日の昼、電話を掛けたときに連絡先として登録したばかりだ。
 いっきに目が覚めた和葉は「あ、ええと」と言いながらふたたびスマートフォンを耳に当てた。

『まだ寝てたかな。ごめんね、朝から』
「い、いいえ」

 部屋の壁掛け時計はすでに九時をまわっている。電話を掛けるのに非常識な時間帯ではない。

『絵画教室のことなんだけど……どうかな?』

 爽やかな声音で尋ねられ、和葉はつい「受講します」と即答してしまった。

『そっか、ありがとう。……それじゃあ、さっそくで申し訳ないんだけど受講の手続きに来てもらえるかな。今日か、明日にでも。場所はアトリエの上だよ』

 ――そうか。アトリエの上の階が藤枝商事のオフィスなのか。それならばここから徒歩三分ほどだ。

「はい。えっと……いまからでも大丈夫ですか?」
『うん、もちろん。迎えに行こうか』
「いえ、じつは自宅がすごく近所なんです。だから……あと10分くらいでお伺いできるかと思います」
『わかった。気をつけて来てね』

 「はい」と返事をしたあと、スマートフォンの画面に『電話終了』と表示されるまでには少し間があった。黒くなった画面に映る自分の顔がほころんでいる。いや、ニヤけている。

(急いで支度しなきゃ!)

 こんなにも心が躍るのはいつぶりだろう。和葉はベッドから飛び起きて洗面所へ向かった。途中、足がもつれて転びそうになってしまったのは起き抜けだからだ。浮足立っているわけではない――と、思いたい。
 洗面台の前に立ち、顔を洗って化粧水を塗る。口もとがほころぶのを止められない。なにがこんなに嬉しいのだろう。

(ついこのあいだまで忘れてたくせにアレだけど……私、りゅうくんのこと)

 恋心とまではいかないが、憧れのようなものを抱いていたのには違いない。だから大人になったいま、再会できてすごく嬉しい。
 和葉はふだんよりも慎重に化粧をして――いつもはもっと雑なのだ――玄関の姿見で全身をチェックしてから家を出た。
 急がずとも先ほどの電話からまだ10分は経っていない。そうわかっているのに、どうしてか早足になってしまう。
 和葉はわずかに息を弾ませて絵画教室の前に到着した。

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posted by 熊野まゆ at 05:40| 淫らに躍る筆先《連載中》


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