2018年02月03日

甘い香りと蜜の味01


 自宅を通り過ぎ、そのとなりの建物へと一直線に向かう。
 白い壁に白い扉はいつ見ても清潔感がある。そこに這う緑の蔦《つた》はいつも生き生きとしていて、眺めるだけでも癒やされる。
 天井まで届きそうな大きな窓から見るかぎり、なかに客はいない。もう店じまいの時間だからだろう。

「――これと……あ、これも。そっちのもください」

 閉店間際のスイーツショップで、三枝 美樹《さえぐさ みき》は店の菓子をすべて買い占める勢いでショーケースを指差した。

「あらあら。スイーツパーティーでもするの?」

 顔見知りの女性店員――南 紗耶香《みなみ さやか》にそう尋ねられた美樹は、ぶんぶんと首を横に振って彼女の言葉を否定する。

「いいえ、ぜんぶ私が食べるんです。イートインで食べて行ってもいいですか?」
「もちろん。じゃあ、たくさん買ってくれたお礼にとびっきりのコーヒーを淹れてあげる」

 パチッと片目をつぶる紗耶香に「ありがとうございます」とお礼を言って、美樹は皿にあふれんばかりに載せられたスイーツを受け取った。
 アンティーク調の茶色い椅子とテーブルが設えらえたイートインスペースに向かっていると、

「そんなに食べたら太るよー?」

 店の奥から現れたのは三つ年下の幼なじみ、廣瀬 拓真《ひろせ たくま》だ。
 白いワイシャツに黒いベストと、くるぶしのあたりまであるエプロンを着た彼の姿を初めて目にしたときは、腹の底から笑いが込み上げた。
 彼は顔立ちがいいのでなにを着ても似合うのだが、幼いころから彼のことを知っている身としては、やんちゃないたずら坊主がいやいや、家業の制服を着ているのがわかって、何だか面白かったのだ。

「いいの、そういう気分なの!」

 美樹は「ふんっ」と鼻息を荒くして、イチゴのショートケーキ、ザッハトルテ、モンブラン――と、順番にフォークで切り取っては忙しなく口へ運んだ。
 「やれやれ」といったふうに拓真はため息をつき、店の玄関へ向かい、扉に掛かっていた札を裏返して『close』にした。それから、大きな窓ガラスのロールカーテンを引き下ろす。

「はい、美樹ちゃん」
「あっ、ありがとうございます! 紗耶香さん」

 紗耶香は美樹の前にコーヒーを差し出したあと、申し訳なさそうな顔になった。

「ごめんなさい、私はもう帰るわね。……美樹ちゃん、今度お話を聞かせて?」
「は、はい。お疲れ様でした」

 困ったように笑って、店の奥へと消える紗耶香を、美樹は淹れたてのコーヒーをすすりながら見送る。

(さすが、紗耶香さんは敏いなぁ……)

 年齢は二歳ほどしか違わないと思うが、彼女のほうがずいぶんと落ち着いているような気がする。

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posted by 熊野まゆ at 06:35| 甘い香りと蜜の味《完結》

2018年02月04日

甘い香りと蜜の味02



「ねえ、何の話?」

 拓真は美樹のとなりの椅子に、背もたれのほうを向いて腰を下ろし、興味津々といったようすで訊いてきた。

「う……。お、大人の話」
「はぁ?」

 拓真にはけげんな顔をされたが、それ以上は追求されなかった。

「そうそう。紗耶香さん、来月結婚するんだってさ。それで、遠くに引っ越すって。今日もさっさと帰っちゃったのは、引っ越しの準備とかあるからじゃないかな」
「えっ、そうなの? じゃあこの店はどうなるの」
「どうなる、って……俺がいるし」
「でも拓真は学校があるから、一日中は店番できないじゃない」
「んー、そうなんだよね。講義がないときは店に出るつもりだけど……ずっと、ってわけにはいかないし」

 美樹と拓真はふたりして「うーん」と頭を抱えた。
 腕を組んでうなっていると、店の奥からコックコートを着た男性が出てくるのが見えた。美樹の胸がトクッと鳴る。

「美樹ちゃん、いらっしゃい」
「あ、こ、こんにちは。お邪魔してます」

 美樹がペコッと頭を下げると、彼はコック帽を脱いでほがらかに笑った。その笑顔を見るだけで歓迎されている心地になる。
 廣瀬 拓人《ひろせ たくと》、二十八歳。真っ白なコックコートにアクセントとして通っている縦の黒いラインと、そこから続く黒いエプロンは彼にとてもよく似合っている。
 拓人は五歳年上の幼なじみだ。一年ほど前、他所《よそ》でのパティシエ修行を終えてこの店に戻ってきた。跡取り息子というわけである。
 彼らの両親は拓人が家に戻ってくるなり温泉地に家を建てて、早々にご隠居生活を送っている。

「……美樹ちゃん、なにかあった?」

 拓人はテーブルの上にずらりと並んだスイーツを見て言った。

「えっ? あ、ええと……」

 困ったような笑顔になったのは美樹と拓人、ふたりともだ。
 拓人は美樹の向かいの椅子に座りながら言葉を継ぐ。

「だって美樹ちゃん、なにかあるとそうやって甘いものをどっさり買って食べるでしょ」

 彼の薄茶色の瞳がすうっと細くなる。なにもかも見透かされているような心地になってしまう。彼の言うとおりだ。一番最近のどか食いは、就職活動中に五社連続で面接に落ちたときだ。

「はい――じつは、さっき会社を辞めてきました」

 「えっ」と声を上げて驚いたのは拓真だ。

「就職したばっかなのに?」
「う……」
「……働いていればいろいろあるよね」

 拓真が責めるような口調だったからか、拓人は美樹を擁護したようだった。

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posted by 熊野まゆ at 09:12| 甘い香りと蜜の味《完結》

2018年02月10日

甘い香りと蜜の味03



「ああ、そうだ。南さんが結婚退職するから、ちょうど販売員の募集をかけようと思っていたところなんだ。次の職が見つかるまでのつなぎでもいいから……美樹ちゃん、どう?」
「えっ……。わ、私でいいんですか?」
「もちろん。僕らの店のケーキをこんなにたくさん食べて愛してくれてる美樹ちゃんなら、むしろ大歓迎だよ」

 ――ああ、どうしてこの男性《ひと》はこう、乙女心をくすぐるようなことばかり言うのだろう。
 これだから、顔を合わせるたびに『好き』の度合いが増してしまう。
 嬉しさと、心のなかでふくれ上がる気持ちがないまぜになって、目頭が熱くなる。
 美樹は何とかして涙をこらえながら拓人に言う。

「ありがとうございますっ……。よろしくお願いします!」


 自宅に戻った美樹は夕飯の席で両親に仕事のことを報告して、入浴を済ませて自室へと引っ込んだ。

(お母さんたち、驚いてたなぁ……)

 それもそうだ。半年前に就職した娘が早々に会社を辞め、となりのスイーツショップに再就職することになったのだ。
 「おまえがいいと思う場所で働きなさい」という父親の言葉には救われた。ふだんは寡黙な父だが、ここぞというときには欲しい言葉をくれる。
 母親もまた寛大で、「それはよかったわね」と大喜びしてくれた。
(私って本当、恵まれてる。もうこれ以上のことはない)
 美樹はベッドのなかに潜り込んだものの、寝付けなかった。今日だけでいろんなことがありすぎて、頭が冴えている。
 ベッドから抜け出し、バルコニーへ出る。すぐ目の前はスイーツショップの二階――住居スペースがある。バルコニー同士を突き合わせる形で隣接している。
 バルコニーの柵に手をついて夜空を見上げる。
 今宵は満月。まばゆいけれど、いつまででも見ていたくなる美しい月だ。
 ガラガラッ、と引き戸が開く音がした。その音で美樹は顔を正面に向ける。

「あ……拓人さん。こ、こんばんは」
「うん、こんばんは。なにしてるの?」
「ええと……月を見てました」
「月、か」

 向かいのバルコニーにいる拓人が天を仰ぎ見る。美樹は今度は月ではなく彼に、釘付けになった。
 月明かりに照らされた黒髪は、湯上がりなのかきらきらときらめいている。どんな角度から見ても彼の顔だちは均整が取れていて美しく、文句のつけようがない。性格にしてもそうだ。

(男のひとに向ける言葉じゃないけど、拓人さんは『高嶺の花』って感じなんだよね)

 そういうわけで気後れして、想いを告げたことは一度もない。
 失業したその日に再就職が決まっただけで幸せなのだ。
 ――だから、彼とどうにかなりたいなんて、望むべきではないのである。

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posted by 熊野まゆ at 07:37| 甘い香りと蜜の味《完結》

2018年02月11日

甘い香りと蜜の味04


 翌日、美樹はさっそくスイーツショップ『ショコラ・デ・マノーク』に出勤した。制服はまだないので、白いワイシャツに赤いエプロンをつけ、ネームプレートには『研修中』がくっついている。

「きっ、今日からどうぞよろしくお願いしますっ!」

 店の奥にある事務室で美樹は紗耶香に向かって深々と頭を下げた。これから一ヶ月弱、彼女に販売業務を教わることになる。拓真はいま大学で講義を受けているので、不在だ。

「ふふ、そんなに気負わないで?」

 紗耶香は力の入りすぎた美樹の両肩をポンッと叩いた。そんなふうにされると少しだけ気が楽になる。美樹は紗耶香につられて笑顔になった。

「このお店――美樹ちゃんも知ってると思うけど、じつはネット販売とか、式場へのケーキの配達とかがメインなのよ」
「あぁ、なるほど」

 住宅街の奥まったところにあるからか、訪れる客はそれほど多くない。しかしネットや、周辺地域での評判はとてもよい。
 スイーツショップランキングではいつも上位だし、著名人のブログで紹介されているのも見たことがあるが、いずれも住所は非公開なのである。店が住宅街にあるので、周囲に配慮してのことだろう。ネットの受注と、コンスタントに受注するウェディングケーキの製作だけで手いっぱいで、訪問客まで手がまわらない、というのもあるかもしれない。

(いまだってパティシエは拓人さんだけだし)

 ショコラ・デ・マノークが拓人の父親の代だったとき、彼は人を雇って事業拡大しようとは考えていなかった。いつだったか彼ら家族を夕飯に招待したとき、拓人の父は「家族が食べていけるぶんだけ稼げればいい」と、うちの父親相手に話しているのを聞いたことがある。

「――だから、店を訪ねてくるお客さんの相手よりも、ネットでの受注品の確認と、発送準備が主な仕事よ」
「そうなんですか」
「そうなんです。ええと――」

 紗耶香は身をかがませ、テーブルの上に載っているノートパソコンをのぞき見る。

「今日は、ギフトのお届けがけっこう多いわね。梱包を手伝ってくれる? お店のほうは、チャイムが鳴ったら出ていけばいいから」
「はいっ、わかりました!」

 そうして美樹は、焼菓子の梱包に初挑戦する。

「ここを、こうして……うん、そうね。……ええと、うん」

 紗耶香が苦笑いを浮かべる。いっぽうの美樹は、いまにも泣き出しそうな顔になっていた。
 透明のフィルムに入ったクッキーを箱詰めして包装紙で巻く、という作業を小一時間ほど続けているのだが――まったくもってうまくいかない。一体何枚、包装紙を無駄にしたことだろう。

(もうーっ、私ってどうしてこう、不器用なんだろ!?)

 自問したところで始まらない。買い置きの包装紙がすべてなくなってしまった。

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posted by 熊野まゆ at 07:02| 甘い香りと蜜の味《完結》

2018年02月12日

甘い香りと蜜の味05



「あの、私……包装紙を買ってきます……」
「ええ、気をつけて。大丈夫よ、私も最初は全然だめだったから。数をこなせば何とかなるわ。あ、領収証を忘れないようにもらってきてね」
「はい。行ってきます――」


 その日の夜、美樹は店のぶんとは別に包装紙を買って自室で梱包の練習を繰り返した。
 一枚の紙を擦り切れるまで使って、その上で三十枚は消費したころに、ようやく、何とか見られる形になってきた。
 部屋に散乱する失敗作の山をそのままにして、美樹は夜風に当たるべくバルコニーへと出る。

「あ……」

 またしても拓人にばったり出くわした。彼はティーカップを片手に夜空を見上げていた。

「美樹ちゃん。お疲れ様」
「お疲れ様です」

 今日も湯上がりらしく、髪の毛は少し濡れていて、しかもワイシャツの胸もとがはだけていた。目のやり場に困って、美樹は彼が手に持っていたティーカップをじいっと見つめる。

「ハーブティーなんだけど、美樹ちゃんも飲む?」

 ティーカップを差し出される。そればかり見つめていたせいで誤解させてしまった。手を伸ばせばカップを受け取れる距離だったが、美樹は首を横に振った。

「あ、そうだよね。俺の飲みかけなんていらないよね。ごめん、へんなことして」
「いえっ、そんな……」

 ――むしろ、そうだから飲めないのではないか!
 恋い焦がれる拓人が口をつけたものを飲むなんて、下心がありすぎて、できない。
 美樹がうろたえているあいだに、拓人は身を乗り出して彼女の部屋のなかを見た。

「あ、ごめん。勝手にのぞき見しちゃって……。何か俺、失礼なことばっかりしてるね」
「い、いえ」

 美樹の頬が赤くなる。部屋のなかは散らかしたままバルコニーへ出てきてしまったので、恥ずかしい。
 赤い頬のままうつむく美樹を見て、拓人はほがらかに笑んだ。

「頑張ってるみたいだね? ありがとう。でもあんまり根を詰めないでね」

 うつむいたまま、美樹は「はい」と返事をする。

「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」

 部屋のなかへ入っていく彼を見送ったあとで、美樹もまた自室へ戻った。



「おっ? 何だ、できないできない言ってたわりに、けっこうマシじゃん」

 閉店後。カウンターの前で四苦八苦していた美樹の手もとをのぞき込み、拓真は軽口を叩く。

「まぁでも、あとちょっとって感じかな。コツがあるんだよねー」
「コツ? なあに、教えて」
「どうしよっかなぁ」


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posted by 熊野まゆ at 06:48| 甘い香りと蜜の味《完結》


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