2017年09月29日

淫らに躍る筆先08


(わ、私……何てこと言っちゃったんだろう!?)

 こんなところではだめだと思っていたはずなのに、彼の哀しそうな顔を見ていたらついそんなことを口走ってしまった。

「いえ、その……いまのは」
「――和葉ちゃん」

 腰もとをつかまれ、強制的に体が移動する。和葉はソファに腰掛けたまま龍生にうしろから抱き込まれる恰好になった。

「少しだけ……」

 彼の吐息をすぐそばで感じた。むずがゆいなにかがぞくりと全身を駆け巡る。嫌悪だとか、そういうたぐいのものではない。もっと好意的な、なにかだ。

(久しぶりに会って、まだほんの少ししか一緒に過ごしてないのに)

 それなのにこんな反応をしてしまう自分が情けない。欲求不満だったわけではない。そもそも絵画教室に通おうと思ったのだって、出会いを求めてのことではないのだ。

「――っ!?」

 考え事をしていたせいか、首すじを舐められたのがずいぶんと唐突に思えた。生温かい舌は味見のように一度だけ和葉の素肌を舐め上げた。龍生が長く息を吐く。

「ほんと、ごめん……。和葉ちゃん、前からかわいかったけどますます綺麗になってるから」

 龍生は和葉の首に顔をうずめたまま話す。

「触れたらどんな顔をして……どんな声を出すのか、知りたいって衝動を抑えられない」

 トクン、トクンと心臓以外のところが甘く脈づく。

「再会して間もないのに、いきなりこんな……ごめん、本当に」

 耳のすぐそばでかすれ声を出されてはたまらない。それにしても、彼にも『まだ再会したばかりなのに』という思いはあるようだ。
 艶っぽい声音で龍生は言葉を紡ぐ。

「嫌だって思ったらすぐに言って」

 甘く脈を打ったのはまぎれもなく秘められた部分だ。

「あ……」

 顔を上げられずにいると、節くれだった細長い指先がブラウスのボタンをふたたび外し始めた。

(嫌……ではないけど)

 急展開すぎてどうしたらよいのかわからないというのが本音だ。触れられたいような、しかし恥ずかしいから触れてほしくないような――複雑な心境だ。
 プチン、という音で和葉は現実に引き戻される。気がつけばブラウスのボタンはすべて外されていて、ブラジャーのホックも弾かれていた。

(き、緊張してきた)

 そもそも緊張していたが、いっそうそれが張り詰めていった。龍生は両手をゆっくりと動かして和葉のふくらみをふにゃりとつかむ。

「んっ……!」

 思いがけず出た声は低く、少しかすれていた。龍生の肩がピクッとわずかに跳ねる。

前 へ l 目 次 l 次 へ


posted by 熊野まゆ at 08:47| 淫らに躍る筆先《完結》

2017年09月25日

淫らに躍る筆先07


「じゃあ……俺を予定に入れてもらえないかな」

 彼の耳はほんのりと赤くなっていた。冗談で言っているのではないとわかる。

(夢……みたい)

 数日前まで見合いの心配をしていたくらいなのに、何ということだろう。

「わ、私でよければ……喜んでっ」

 発した声が上ずってしまって、とたんに恥ずかしくなる。いや、恥ずかしいのはそのせいだけじゃない。静かなこの部屋でいまいちばんうるさく音を立てているのは自分の心臓なのではないかと思う。
 前を向いたまま動けずにいた和葉だが、視線を感じておそるおそる横を見た。
 龍生は顔から手を離して、安心したようにほほえんでいた。その笑顔にまた胸がドクンと高鳴る。つられて和葉も笑う。そうして笑っていても、緊張の糸は解けない。
 もうずいぶんと長いこと見つめ合っている、と気がついたときには彼の顔から笑みが消えていた。真剣な顔が、近づいてくる。
 和葉はゆっくりと目を閉じる。まぶたが震えてしまう。
 音もなく唇が重なる。ちゅっというリップ音すら聞こえなかった。それほど静かで控えめな口づけだった。龍生はすぐに顔を離した。

「ごめん……。こんなところで……いきなり、嫌だよね」

 やんわりとつかまれたままの両腕が熱をもってきた。和葉は首を小さく横に振る。

(いやじゃ、ない……。自分でも不思議だけど)

 久しぶりに再会して、付き合うことになって、いきなりキスを交わして。なにもかもが急なのに、嫌だとは思わない。それはすでに彼の人となりがわかっているからなのか、あるいは麗しく成長した彼に惚れ込んでしまったからか。

(あれこれ考えても仕方ない)

 唇を、先ほどよりも深く食まれる。もう少しで舌まで触れてしまいそうなほど深く唇を重ね合わせる。

「――んっ!?」

 胸もとでなにかがモゾモゾと動いた。和葉は驚いて目を開ける。白いシフォンブラウスのボタンを外していたのはほかでもない龍生の両手だ。

(キスだけじゃ、ない!?)

 『そういう』ことに至っても嫌ではないが、まだ明るい時間だ。こんな時間にこんな場所でそういうことをしてもいいのだろうか。

「あ、あのっ……明るいので、ええと……恥ずかしい、です」

 うつむいたままそう言うと、龍生はしばし動きを止めたあと「そうだよね」と言葉を返してソファに座り直した。右の?を指でかきながら龍生は視線をあちらこちらへと移ろわせる。

「……うしろからなら……いい?」

 小さな声で訊かれ、和葉は唇を引き結んだまま顔を上げる。

(そういう問題じゃないんだけど)

 龍生は口をへの字に曲げて心配そうにこちらのようすをうかがっている。何だか健気だ。

「……うしろから、なら……」

 和葉は龍生の言葉をおうむ返しした。意識的に発した言葉ではなかった。言ってしまったあとで、和葉は我に返る。

前 へ l 目 次 l 次 へ


posted by 熊野まゆ at 06:06| 淫らに躍る筆先《完結》

2017年09月24日

淫らに躍る筆先06


(あ……どうしよう。何だか緊張してきた)

 彼の肩がすぐとなりにある。和葉は両手に持ったマグカップをゆっくりと傾けて一口だけコーヒーをすすった。緊張のせいか味がよくわからない。

「りゅ――藤枝さんは、社長さんをしながら絵画教室の先生もしてるんですね」

 なにか話題を、と思い話しかけた。龍生がわずかに眉をひそめる。

「そうだけど……なに、その呼び方」

 彼の気を悪くしたのは明らかだった。

「あ、その……」

 子どものころのように「りゅうくん」と呼ぶのはためらわれる。よその会社の社長で、絵画教室の先生なのだ。子どものころと同じあだ名で呼ぶわけにはいかない。
 龍生は眉間に少しばかりのシワを寄せたままマグカップをローテーブルの上に置いた。

「名前で呼ばれたいな、昔みたいに。俺だって『和葉ちゃん』って呼んじゃってるわけだし」

 突然、彼の顔が目の前にやってきたので和葉は危うくマグカップを落としてしまうところだった。両手で持っているのでなければ確実にカップを落として割ってしまっていたことだろう。

(顔をのぞき込んでくる癖、変わってない……!)

 しかし本人にそんな文句を言えるはずもなく、和葉はうつむくしかない。それから小さな声で彼の名を呼んだ。

「……龍生、さん」

 彼の眉間のシワが瞬く間に消え失せる。

「んー……まあいいか。……うん、いいよ。それで」

 満足げにほほえみ、龍生は飲みかけのコーヒーが入ったマグカップをぐいっといっきにあおる。

「あの……私のほかにも、受講者にお電話されたことってありますか?」

 なぜそんなことを尋ねてしまったのかといえば、顔をのぞき込まれて気が動転していたせいだ。そうでなければ、いくら気になっていたからといってもほかにもっと聞き方があった。
 龍生は驚いたような顔をして、しかしすぐに眉尻を下げて頬をかきながら「えっと」と言葉をにごした。

「勧誘の電話なんて、掛けたことないよ。きみ以外には」

 真剣な顔つきでポン、と頭に触れられる。和葉はビクッとせずにはいられない。その反応に驚いたのは龍生だ。

「ごめん、俺……思いがけずきみに再会できて、舞い上がってるんだと思う」

 慌てたようすで和葉から距離を取り、龍生は右手で前髪をくしゃりとかき上げる。

「きみのこと、子どものころからずっと気になってたんだ」

 彼の頬が朱を帯びていく。恥ずかしげに視線がさまよい始める。

「受講の手続きに来てほしい、なんて……ただの口実だ」

 とうとう龍生は顔を両手で覆ってしまった。くぐもった声で「いま付き合ってるひとはいる?」と尋ねられ、和葉は「いいえ」と答える。

「今後だれかと付き合う予定は?」
「……ない、です」

 両手で顔を覆っていた龍生だが、指と指のあいだを開いて瞳をのぞかせた。

前 へ l 目 次 l 次 へ


posted by 熊野まゆ at 06:53| 淫らに躍る筆先《完結》

2017年09月23日

淫らに躍る筆先05


(どこから入ればいいんだろう?)

 今日はアトリエもその上の階にあるという藤枝商事も休みのようで、玄関は施錠されているようだった。
 彼に電話を掛けようとハンドバッグの中を漁っていると、

「和葉ちゃん、こっち」

 オフィスビルの角から顔を出した龍生に手招きされる。彼は「こっちこっち」というようにただ手招きをしているだけなのに、なぜこんなにもサマになるのだろう。
 「おはようございます」と言いながら龍生のもとへ駆け寄る。彼に案内されたのはビルの裏口だった。どうやら龍生は休日出勤をしているらしい。
 関係者以外立入禁止、と書かれた鉄扉からビルの中へ入ると、すぐに階段をのぼることになった。
 龍生は『社長室』という札が掲げられた部屋の扉を開けて「どうぞ」とうながしてくる。

(もしかして、とは思ってたけど……)

 彼はやはり藤枝商事の社長のようだ。そうでなければ休日とはいえこの部屋に通されることはないはずだ。

「休日に急に呼び出して悪かったね」
「いえ、こちらこそ……お仕事中、ですよね」

 執務机の上は書類でいっぱいだ。彼が休日出勤をしていたのだとうかがえる。龍生は和葉の視線の先を追い、彼女が机の上を見て気を遣っているのを悟る。

「机仕事は休日のほうがはかどるからね。だから別段、急ぎというわけじゃないんだ。ええと……ソファに座って少し待ってて、コーヒーを淹れてくる」
「あ、それなら私が」
「お客様に淹れさせるわけにはいかないよ。俺もちょうど休憩するところだったから、きみのぶんはついでってことで」

 そう言うなり龍生はウィンクをして部屋を出て行ってしまった。

(ウ、ウィンク……)

 そんなことしても違和感のないひとが現実にいるとは驚きだ。漫画や小説の中だけだと思っていた。

(……この展開だって、現実のものとは思えないけど)

 三人掛けのソファの端に腰を下ろし、そわそわとあたりを見まわす。ほかに休日出勤している社員はいないらしく、静かなものだ。

(このあたりは車通りも少ないしね)

 この部屋で響いている音といえば空気清浄機くらいだ。その音だって、耳をすませばかすかに聞こえるという程度。休日だから、電話が鳴り響くこともない。

「――おまたせ」

 ふたつのマグカップを器用に片手で持って龍生が戻ってきた。和葉は「おかえりなさい」と言いながら立ち上がり、コーヒーが入ったカップを受け取る。

「ごめん、砂糖とかミルクが置いてある場所がわからなくて……ブラックなんだけど、平気かな」
「はい、大丈夫です」

 和葉はマグカップを持ったままふたたびソファの端っこに座った。龍生はというと、向かいではなく和葉のとなりに腰を下ろした。広いソファだというのに端のほうに並んで座るという無駄に省エネな座り方だ。

前 へ l 目 次 l 次 へ


posted by 熊野まゆ at 05:53| 淫らに躍る筆先《完結》

2017年09月22日

淫らに躍る筆先04


 土曜日、和葉はスマートフォンのコール音で目を覚ました。土曜日に掛かってくる電話はたいていプライベートなものだ。母親か、あるいは友人か。和葉は相手をろくに確かめもせず寝ぼけ声で「はい」と言って電話に出る。

『和葉ちゃん? 藤枝です』
「ふじえだ……」

 しばし考えたあと、和葉は耳からスマートフォンを離す。電話相手は『藤枝商事』と表示されている。昨日の昼、電話を掛けたときに連絡先として登録したばかりだ。
 いっきに目が覚めた和葉は「あ、ええと」と言いながらふたたびスマートフォンを耳に当てた。

『まだ寝てたかな。ごめんね、朝から』
「い、いいえ」

 部屋の壁掛け時計はすでに九時をまわっている。電話を掛けるのに非常識な時間帯ではない。

『絵画教室のことなんだけど……どうかな?』

 爽やかな声音で尋ねられ、和葉はつい「受講します」と即答してしまった。

『そっか、ありがとう。……それじゃあ、さっそくで申し訳ないんだけど受講の手続きに来てもらえるかな。今日か、明日にでも。場所はアトリエの上だよ』

 ――そうか。アトリエの上の階が藤枝商事のオフィスなのか。それならばここから徒歩三分ほどだ。

「はい。えっと……いまからでも大丈夫ですか?」
『うん、もちろん。迎えに行こうか』
「いえ、じつは自宅がすごく近所なんです。だから……あと10分くらいでお伺いできるかと思います」
『わかった。気をつけて来てね』

 「はい」と返事をしたあと、スマートフォンの画面に『電話終了』と表示されるまでには少し間があった。黒くなった画面に映る自分の顔がほころんでいる。いや、ニヤけている。

(急いで支度しなきゃ!)

 こんなにも心が躍るのはいつぶりだろう。和葉はベッドから飛び起きて洗面所へ向かった。途中、足がもつれて転びそうになってしまったのは起き抜けだからだ。浮足立っているわけではない――と、思いたい。
 洗面台の前に立ち、顔を洗って化粧水を塗る。口もとがほころぶのを止められない。なにがこんなに嬉しいのだろう。

(ついこのあいだまで忘れてたくせにアレだけど……私、りゅうくんのこと)

 恋心とまではいかないが、憧れのようなものを抱いていたのには違いない。だから大人になったいま、再会できてすごく嬉しい。
 和葉はふだんよりも慎重に化粧をして――いつもはもっと雑なのだ――玄関の姿見で全身をチェックしてから家を出た。
 急がずとも先ほどの電話からまだ10分は経っていない。そうわかっているのに、どうしてか早足になってしまう。
 和葉はわずかに息を弾ませて絵画教室の前に到着した。

前 へ l 目 次 l 次 へ


posted by 熊野まゆ at 05:40| 淫らに躍る筆先《完結》


ページトップへ