2017年07月01日

秘されし、その甘やかな救済 第三章09


 マティアスは瞬時に顔色を変えてルーサーに言う。

「すぐに馬車を出してくれ。行き先は神殿だ」

 ルーサーは工場長から手早くワインを受け取り、御者にすぐに発つよう指示を出す。
 工場長はというと、満面の笑みで手を振っていた。

「……神は何とおっしゃったのですか?」

 向かいの入口側に座るルーサーが、押し黙るマティアスに尋ねる。マティアスは眉間にしわを刻んだまま話す。

「ラティーシャが危ない、と――。それから、空から落ちてくるものを何とかすると言っていた」
「それは……緊急事態ですね。ラティーシャ様は具体的にどのような状況なのでしょう?」
「彼女が祈りの間の近くにいるということ以外はわからない。……いまはもう、彼の声が聞こえない」
「そうですか……」

 ルーサーはマティアスと同じように思案顔になる。

「このあとの予定は調整しておきますので、マティアス様はどうかラティーシャ様のもとへお急ぎください」
「ああ……すまない」

 マティアスは車窓から空を見上げる。

(空から落ちてくるもの、とは何のことだ?)

 彼はそれを「何とかする」と言っていた。何とかしなければならないものとは、いったいなんのことだろう。
 空は青く澄み渡っている。落雷や、あるいは雹《ひょう》が降ってくるというわけでもなさそうだ。
 しかしその次の瞬間、マティアスは初めて目にする光景に息をのんだ。

「なんだ、あれは――?」

 光をまとったなにかが空を駆けて迫りくる。その異様な光景にマティアスは目を見張り、同時に体をこわばらせた。
 その『なにか』は、吸い寄せられるように神殿へと落ちていった。


「い、やっ……! 放して!!」

 ラティーシャは声の限りに叫んだ。しかしここは神殿の奥。祈りの間を出てすぐのところだ。だから、この叫び声はよほど運がよくなければ他人《ひと》の耳には届かないだろう。

「照れなくてもいいんだよ、ラティーシャ」

 レイヴンは卑劣さのにじみ出た笑みを浮かべてラティーシャの体を羽交い絞めにしていた。じたばたと暴れる彼女を強引に押さえ込む。

「照れてなんかいません! 放して下さい!」

 何度もそう言った。否定の言葉を言い連ねた。しかしレイヴンは聞く耳を持たない。
 ラティーシャは祈りの間の前でレイヴンに待ち伏せされていた。今日の神殿は閑散としている。だから彼は難なくここまで来ることができたのだろう。もしかしたらあとをつけられていたのかもしれない。

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posted by 熊野まゆ at 06:29| 秘されし、その甘やかな救済《完結》

2017年06月25日

秘されし、その甘やかな救済 第三章08


 神殿に赴く機会は多々あったが、ラティーシャのことはいつも遠くから眺めるばかりだった。悶々とした日々が酒をすすませる。そうして、あのような愚行に出たわけだ。

(ラティーシャは、道端で倒れている俺を助けてくれた)

 情けない接触の仕方だったが、きっかけにはなった。ラティーシャの人となりを知り、ますます彼女に惚れ込んだ。

(ずっと想ってきたんだ。あせって無下にはしたくない。困らせたくもない――)

 みずみずしい唇を指で撫でたどる。そこへ食らいつきたいのをグッとこらえて、マティアスはラティーシャに触れるか触れないかの口づけをした。
 もっと寝顔を見ていたいという思いを押し込めて、マティアスはラティーシャの寝室をあとにした。


 その日は早朝から郊外のワイン工場を訪れていた。あたりにただよう葡萄の香りを満喫しながら、工場長に勧められるまま試飲する。がぶ飲みするのはやめておいた。一応、職務中だ。

「今年のワインは格別かと」
「ああ、そのようだな。国外に贈答用としての出荷を検討しよう」
「ありがとうございます!」

 恰幅のよい中年の工場長はパアッと表情を明るくさせた。

「公爵さま、土産に何本かお持ちください」
「ありがたく頂戴する」
「ではすぐに持って参ります!」

 工場長は喜々としたようすで小走りをして事務所へ入っていく。ぼとぼとと走る彼の背を見送りながらマティアスは帰り支度をした。そばに立っていたルーサーが羊皮紙をめくって次の予定を確認している。

『――マティアス!』

 馬車に乗り込もうとしていたマティアスは驚いてうしろを振り返る。しかしそこには小太りの工場長がワインを持って走ってきているだけだ。彼に、名前で呼び止められたわけではない。

(なんだ? いまのは……)

 聞き覚えのある声だった。高くも低くもない、少年のような声――。

『マティアスッ、僕の声が聞こえる!?』
「――!」

 幻聴などではなかった。確かに聞こえた。それは神殿の奥にいる神の声。

「聞こえている」

 そう返すと、ルーサーは首を傾げた。どうやらアドニスの声は自分にしか聞こえていないらしい。

「マティアス様、どうなさいました?」
「……神の声が聞こえるんだ」

 ――ああ、もしこれがルーサー相手でなければ頭がおかしくなったと思われたに違いない。しかし彼は神殿に少年の姿の神が住んでいることを知っている。不審がることなく、「では私は黙っておきます」と言って口をつぐんだ。
 マティアスはアドニスの声に耳を澄ます――といっても、頭の中に直接響いているような感覚だ。

『ラティーシャが危ないんだ! 祈りの間の近くにいる。早く助けてあげて! 僕は空から落ちてくるものを何とかするので精いっぱいなんだ』
「な――!?」


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posted by 熊野まゆ at 07:28| 秘されし、その甘やかな救済《完結》

2017年06月23日

秘されし、その甘やかな救済 第三章07


 遠方での視察を終えて邸に戻ったのは深夜だった。
 マティアス・エルフォードは自室ではなく、ゲストルームへと急ぐ。明かりの消えた部屋を、返事は期待せずにノックする。案の定、中から「どうぞ」という声は返ってこない。合鍵を使ってゲストルームの中へ忍び込み、そこで眠る彼女の顔を見下ろした。
 ラティーシャはあどけない顔ですやすやと眠っている。マティアスは窓際から椅子を持ってきてベッド脇に置き、そこへ腰かけた。脚を組み、円卓に頬杖をつく。

(ここのところ、ろくに会話もしていない)

 顔を合わせるのは朝食のときくらいだ。使用人の目もあるため、朝食の場で彼女を口説くわけにもいかない。マティアスはなかなかラティーシャとの仲を進展させられずにいた。

(先日は早まったことをした。酔った勢いというのは恐ろしい)

 すやすやと眠るラティーシャの頬をそっと撫でる。この子は男性不信なのだ。それなのに、いきなりあのようなことをしては怖がらせるだけだ。挙句にラティーシャは気を失ってしまい、あせった。すぐに医者に診せると、ただ疲れて眠っているだけだとわかって安堵したのと同時に、無理をさせてはいけないと思った。

(ラティーシャは勤勉だからな……。どんなに体がつらくとも必ず神殿に出仕する)

 いまの彼女は昔の自分を見ているよう。ラティーシャが巫女見習いになった、三年前の自分だ。
 三年前もいまと同じで働き詰めの毎日だった。ただ、いまと違うことがひとつだけある。父の急逝であわただしく公爵位を継いだあの頃はまわりがすべて敵に見えていた。自分の殻に閉じこもっていたのだ。
 なにをするにも他人には任せられず、すべて抱え込み、睡眠時間を削ってただひたすら仕事をこなす日々だった。
 そんなとき、ラティーシャに出会った。いや、彼女は覚えていないようなので、一方的に知ったというほうが正しいかもしれない。

「お顔の色が優れませんね。神殿内で少しお休みになってはいかがですか」

 神殿の廊下ですれ違ったときにそう声を掛けられた。
 一目で、彼女に魅入った。
巫女見習いになったばかりの頃の彼女はいたいけであどけなく、そこには何の意図も感じられなかった。ただ純粋に体を心配してくれているのだと、そう感じた。
 いま思えば、『巡礼者の顔色がすぐれないときは奥の間で休ませること』という神殿の規則を律儀に守って声を掛けてきただけだと思うが、マティアスにとっては運命的な出会いだった。
 そのあと、マティアスはラティーシャのことを徹底的に調べた。旧友である神殿長オズウェルの妹だと知り、オズウェルにラティーシャを紹介してほしいと頼んだが断られた。ラティーシャは男性不信なのだとオズウェルに聞かされ、へたに言い寄って嫌われたくないという思いから尻込みした。

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posted by 熊野まゆ at 13:28| 秘されし、その甘やかな救済《完結》

2017年06月18日

秘されし、その甘やかな救済 第三章06


 巫女に昇格して数日が経ったある日。その日は朝から雨が降りしきっていた。しとしとと降り続く雨は神殿内を陰鬱な雰囲気にさせるのと同時に、巡礼者の足も遠のかせる。したがって巫女や巫女見習いも、雨の日には休みを取ることが多い。神殿の中はふだんよりも閑散としていた。

「こんにちは、アドニスさま」

 ラティーシャは祈りの間にいた。いまも、巫女見習いだったころと同じで神殿内の清掃や護符の配布を行う。巫女になってなにが変わったかと聞かれればそれはただひとつ、祈りの間でアドニスと話をするということだけだ。

「やっほー、ラティーシャ。元気そうだね」
「はい。アドニスさまもお元気そうでなによりです」
「さぁて、今日こそきみの恋の話を聞かせてくれる?」
「そっ……れは、また今度」

 ラティーシャが苦笑いを浮かべると、アドニスはぷうっと頬をふくらませた。

「もうっ、いっつもそれなんだから! 僕ってそんなに信用ない?」
「そういうわけではありません。その……私の中でもよくわからないものですから」
「そういうのを全部、話してもらいたいんだけどな。ラティーシャはつれないなぁ……」

 しゅん、とこうべを垂れるアドニスを見てラティーシャはあいまいに笑うしかない。
 あれからマティアスとはしばらく顔を合わせていない。巫女に昇格すれば神殿に住む権利が与えられるわけだが、マティアスには恩義があるためいまだに公爵邸に居座っている。
 ――いや、居座っている理由はきっとそれだけではない。

(私は朝から晩まで神殿の仕事があるし……マティアスさまだってそう)

 彼は遠方へ視察に行くことも多く、たびたび公爵邸を留守にする。顔を合わせる機会は朝食くらいだ。そのときも、たわいない話をするだけで終わってしまう。

(もっと……マティアスさまとお話しがしたい)

 そう思うのはなぜなのか。説明できない。
物思いにふけるラティーシャを、アドニスはじいっと見つめていた。しかし突然、

「――あぁぁ、何かヤバいのがきてる! ラティーシャ、早く逃げて!」

 あわてた様子でそう言って、少年の姿をした神様は出入り口の大扉を指さす。

「逃げるって、そんな……。アドニスさまはどうなさるんですか?」

 いきなりなにを言い出すのだろうと思ったが、神様の言うことだ。嘘ではないようだし、必死の形相は冗談を言っているようにも見えない。

「僕は実体がないから大丈夫! できるだけ被害が出ないようにしたいけどっ……。きみを守れる自信はない。だから、早く行くんだ!」

 鬼気迫る表情に圧されてラティーシャは声もなくうなずき、祈りの間を出て行く。

(いったいなにがきているっていうの?)

 突然のことに頭がついていかない。もしかしたらこれは神の信託なのかもしれない。早く皆に知らせなければ。ラティーシャが駆け出した、そのとき。

「――ん、ぐっ!?」

 突如として目の前が真っ暗になった。口もとをなにかに塞がれて、強い力でうしろに引き込まれる。

「……つかまえた」

頭上から響いたその声に、ラティーシャは戦慄した。

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posted by 熊野まゆ at 06:26| 秘されし、その甘やかな救済《完結》

2017年06月17日

秘されし、その甘やかな救済 第三章05


「このビスケット、シュバルツ公爵さまからいただいたのよ。機会があればラティーシャにも食べさせてあげて、って」
「えっ!?」

 マティアスとイザベラに面識があったことにまず驚いた。

「お姉さまは公爵さまとお知り合いだったのですね」
「ええ。シュバルツ公爵はいつも神殿に便宜を図ってくださるから、巫女ならみんな会う機会が多いわね」
「そうだったのですね……」

 だから彼は神殿の内情にも詳しいのかもしれない、とラティーシャは思った。

「ところでラティーシャ。レイヴンに襲われかけたんですって? そうなった以上は、公爵さまのお邸に住まわせてもらうほうが安心だと姉としても思うわ」
「そっ……れは、そうなのですが……いえ、公爵さまのお邸でお世話になるのはとってもありがたいことなのですが」

 ティーカップを手に持ったまま不安げに視線を揺らすラティーシャに、イザベラはほんの少しだけ体を動かして近づいた。

「あなたの悩みはほかにあるのね?」

 ラティーシャはこくりとうなずく。

「アドニスさまに訊いてみたんです。巫女とはどうあるべきなのか、と。そうしたら、好きにしていいと言われて……」

 ――なにもかも、お姉さまに相談してみよう。一人では解決できそうにない。

「れ、恋愛してもいいのだと……言われて」

 意を決して言うと、イザベラはすぐに「もちろんよ!」と返した。

「恋していいのよ! 巫女なんてもはやただの職業なんだから。こう言ってはあれだけれどあんな神様なのよ? 信仰もへったくれもないわよ。まあ、巡礼してくださるかたには真摯に接しなければいけないとは思うけれど。あんなのでも、神様には違いないし。まあ、とにかく……それとこれとは話が別よ。巫女だろうと――たとえ神に近い存在だろうと、人を好きになることは罪ではない。それで子孫が繁栄するのだから、むしろごく自然な摂理なのよ」

 喉が渇いたのか、イザベラはティーカップの紅茶をぐいっといっきに飲み干した。

「でも私は……父さまに似て浮気性かもしれない、と不安で」

 ごくりと喉を鳴らしたあとでイザベラは不安げなラティーシャに向き直る。

「自分が浮気性かどうかなんて、自分自身が決めることよ。遺伝なんて関係ないわ。人を愛する自信なんて、誰だって初めは持ち合わせていない。その人と過ごすうちにつちかわれていくものよ」

 イザベラの言葉には説得力がある。まるでそれが彼女の経験談のように。

「お姉さまにもそういうかたが?」

 疑問に思ったことをそのまま口にした。するとイザベラは急に口をつぐんでしまった。

「あの、お姉さま?」

 訊いてはいけないことだっただろうか。おろおろしながらラティーシャはイザベラの顔色をうかがう。

「……ふふ。どうでしょうね」

 どこか悲しげに窓の外を眺めながら、イザベラはその長いまつ毛を伏せる。

「あなたは、オズウェルお兄様とよく似ているわよね」

 急にそう言われ、ラティーシャは首を傾げる。

「そうですか? 髪の色だけのような気がしますが」

 見つめ返すと、イザベラは所在なげにゆっくりと視線を逸らした。

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posted by 熊野まゆ at 06:28| 秘されし、その甘やかな救済《完結》


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